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えのきどいちろう、あるいはStand By Me(3)(2004)

5 とんちのきいた男
 そういった傾向を持つえのきどは、『とんちのきいた男』において、現代では「正しさ」や「立派さ」以上に、「とんち」が必要だと次のように述べている。

これは従来、僕が持っていた言葉で言うとファインプレーのことです。ファインプレーはいつもアテにしているところがある。僕は、うっかり出た力も自分の力、ということで平均点を算出しているんですね。日々どうやってうっかりすることに賭けていると言っていい。「この文章の、ここのところにファインプレーが欲しい」、とか、「この話をするんだったらいきなり冒頭からファインプレーで始めたい」とか。
 ファインプレーという言葉は身体性のイメージがあるから好きなんですが、とんちにはそういう瞬発力が秘められていますね。思考のジャンプ。発想の人間風車。やけに腑に落ちる感触があったんですよ。自分はこの先、とんちを鍛え上げていけばいいんじゃないか。

 僕が今までつまらないと思ってたものは全部とんちがきいていなかった。形勢逆転への意欲が感じられない。自分だけのバネがない。「何かあった時」というのは、謎や問題や困難でしょう。謎や問題や困難に直面してどう対処するかというのは、まぁ、生きてゆくことです。そのとき踏み出してゆくアクションにとんちがきいてないのだったら、結局、何にもならないじゃないかと思う。
ここで連想するのは「立派」と「正しい」のことです。皆、「立派」と「正しい」には本当に弱くてせっかくの「何かあった時」にそっちを選んでしまう。「立派」と「正しい」の誘惑は相当なものですよ。とんちがきいてない大半はそこで負けている。「立派」と「正しい」はろくなもんじゃないです。そんなもんは自分の外側探したって絶対にない。

 僕だって自分の信じる「立派」や「正しい」がないわけじゃないけど、それはとんちをきかせ倒して生き抜いた先に、何とも言えない表情で橋にペンキを塗っている人が出迎えてくれたようなもんです。ペンキ屋です。橋の真ん中ペンキ塗りたてです。

 えのきどは「とんちのきいた男」として悪戯や悪ふざけをする。それはちょうど第二次性徴直前の少年のようだ。ヴラジーミル・ナボコフは、『ロリータ(Lolita)』の中で、九歳から13歳の期間の少女を「ロリータ」と命名している。「ロリータ」期の後、男女の発育は逆転する。先に第二次性徴を迎える女子から見れば、男子は子供でしかない。この段階は、人の成長において、独特である。女子は第二次成長を迎え、男子を見下す。しかも、男子は女子よりも体力的に劣っていることさえある。そんな男子は女子に悪戯や悪ふざけをせずにはいられない。えのきどはパラ・ロリータとも言うべきこうした男子の心理を体現している。

 えのきどは、『通学と引力』において、男子の頃について次のように述べている。

 子供の頃は自由で何でも出来たという言い方をするが、僕は不自由だった。自分が少しも思った通りにならず、意識の範囲も狭くて窮屈だった。自分が他の子と比べてひどくいびつに出来ているのではないかという不安もあった。深くは考えない。深くは考えないから、しばらくすると忘れて直ってしまうのだが、全体としてそういうことであった。意識が変に自分に集中していた。

 「自由」は「意識の範囲」が大きくなければ実感できない。「窮屈」であるけれども、子どもは「深く考えない」ことによって、「しばらくすると忘れて直ってしまう」。「意識の範囲」が広くなった大人になってから、子どもの頃を回想して、「自由で何でも出来た」というのは倒錯にすぎない。

 「意識が変に自分に集中していた」えのきどは成長しなかった、あるいは成長を拒否したわけではない。成長は「意識の範囲」に基づく一つの価値である。えのきどはヘルマン・ヘッセの描くデミアンでも、ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓(Die Blechtrommel)』におけるオスカルでもない。彼には哀愁も陰鬱さもない。ただ、「不自由」な子供として、その不満に対し、悪戯と悪ふざけに満ちている。

6 僕は一人だ
 えのきどは「不自由」な少年時代を回想した作品を書くとき、その独特の文学的能力を発揮する。願望の投影がそこにはなく、少年そのものが書いていると言うほかない。

 『釧路』において次のように最もえのきどの特徴が出ている。

 住んでいた町に降り立つ。住宅が相当数建ち並んでいたが、信じられないほど昔と同じだった。同じという感覚ではない。懐かしさでむせかえるようというが、それの極端なやつだ。わかる、という感じにも似ている。幼い頃で知覚が皮膚感覚的であったことから、団地の茶けたコンクリが張りついて来るように、わかる。タンポポの白い種子のぼんぼりが、わかる。路地の風景、地面、坂道のこれから傾ぎだす辺り、そういう変哲のないものが身体をくるんでくる。わかるのだ。
 その町は記憶のドームのようなところだった。北海道の小さな町は僕の子供の時間の空気をそのまま保存してしまっていた。空気自体、重い。息が苦しいような錯覚がある。
 結局わかる情報量が多すぎて、五感の抱えるそれが頭が処理しきれなかったのだろう。濃密なスープのなかを歩いていくようだ。スープのなかを歩いて僕の家の近くに立った。

 えのきどは、父親の仕事の都合で、頻繁に転校している。彼は、転校の度に、スパイのように、変装する。各地を渡り歩いてきた彼は「私」が共同体の内部において機能するだけであり、その外部には及ばないことを知っている。彼は、転校するごとに、別の「私」になりすます。これは嘘ではない。「本当の私」も「嘘の私」も共同体の神話にすぎないからだ。本当と嘘は共同体の存立基盤のために、規定される。

 転校生であるがゆえに、えのきどは共同体空間の持つ「引力」の及ぶ範囲を試す。その構成員であれば、暗黙のうちにわかっていると同時に、厳密には認識していないその「引力」の境界を彼は悪戯とも悪ふざけとも言えるような態度でちょっと遊んでみる。「引力」はこうしたストレンジャーによって、逆説的に、確認される。

 しかし、この「引力」は「意識の範囲」の現われであり、えのきどは、『釧路』において、「ぱたんぱたんと渡り廊下を歩いて、何の気なしに上の方を見たのである。そこで足が止まった。ショックを受けた」と次のように述べている。

 木のレリーフがいくつも並べてかけてあった。レリーフには彫刻刀で子供の顔がヘタクソに無数に彫りつけてある。縁には第何代卒業生一同となっている。それが渡り廊下の上方両脇にずらっと並んでいる。
 遺跡のようだった。そのとき何故か、みんな死んでしまったと思ったのである。みんな死んでしまった。いや、実際にはみんな、サラリーマンになったり、お母さんになったりしてどっかで元気にやっているだろう。だけど死んでしまったと思った。絶望的だった。もう間に合わない。みんな、子供としての死を迎え、ここに刻んである顔になった。僕が転校せずにずっとここにいれば第何代の卒業生になったか知らないが、きっとここに僕の顔を彫りつけていた。

 供養でもするような感じでレリーフの連なりにぺこんと頭を下げてやった。もうずっと昔にそれは終わったのだ。

 大人と子どもは決して連続していない。子ども時代の死を経験した後、すなわち共同体の中で象徴的な死の儀式を通じて、人は初めて大人になる。子どもや大人という概念は共同体において形成されるのであり、そこに根拠を持てない者は大人にも子どもにもなれない。死は共同体的な制度である。葬儀を通じて、初めて、死は共同体において認定される。生も同様である。生は、絶えず、死と再生の儀式、すなわち通過儀礼を繰り返さなければならない。大人は死んだ子どものなれの果てである。

 「私」は、生死に倣い、共同体的制度である。共同体において、儀式や儀礼は死と再生に基づいている。それらを通じて、時間・空間も共同体に属する。共同体は多層性を確保・存続、「私」はそこで規定される。

 時間も空間とは無縁でなく、共同体に所属している。それは記憶さえも強制する。共同体において時空間は死を迎え続けなければならない。その死の蓄積を共同体の記憶とするからだ。空間も時間も共同体を離れて生きられない。それは、さもなければ、その根拠が揺るがされてしまう。

 えのきどは転校生である。迎え入れる側は転校生の過去を知らない。と同時に出て行く転校生の未来にも、どうしているかなと時々思いつつも、あまり興味を持っていない。転校生は異なった空間と時間を知っている。

 12世紀の聖ヴィクトル・フーゴーは「生まれた土地が快いという者は未熟な初心者である。どの土地も自分の故郷であるという者はすでに強い。しかし、世界全体が異郷であるという者こそは熟達者である」と言ったが、えのきどはそんな大見得を切らない。子供時代の死を経験しないとすれば、ナボコフが「ロリータ」と呼んだ少女の時期にあたる少年とならざるを得ない。死と再生の儀式に参加しなかったえのきどは生きているとも死んでいるとも言えない決定不能性にある。「僕は一人だ」。

 コラムは、そのジャーナリスティックな性質上、特定の時間・空間を前提にしている。しかし、「僕は一人だ」と言うえのきどのコラムには、そうした時間・空間の共有が脱構築されている。

 けれども、南伸坊は、『妙な塩梅』の「解説」において、儀式に参加していないえのきどの発想を「共有したい」と次のように述べている。

 徳川美術館で買い物をして、領収書の宛名は何にしましょう? と聞かれたら、さりげなく「上でいいです」といっておいて、徳川美術館の上様になっている。
 映画に出るなら、殿様やりてえと思っている。ぜんぜんひねっていない思想。ワハハな人だ。ぽじろうである。私は、えのきどぽじろうさんを尊敬している。この気持を多くの人と共有したいと思っている。

 まったくその通り。「この気持を多くの人と共有したい」。

 子どもどこ?
〈了〉
参照文献
えのきどいちろう、『社会の窓』、毎日新聞社、1990年
同、『ラブなんだな』、大和書房、1994年
同、『二十世紀の梨と真実』、実業之日本社、1994年
同、『心配御無用』、実業之日本社、1996年
同、『妙な塩梅』、中公文庫、1997年
同、『西へ行く者は西へ進む』、中央公論新社、1999年
水谷加奈、『ON AIR─女子アナ恋モード、仕事モード』。講談社文庫、2001年
ウォルター・リップマン、『世論』上下、掛川トミ子訳、岩波文庫、 1987年
カール・マルクス、『資本論』1、岡崎次郎訳、国民文庫、2000年
『世界の文学』19、朝日新聞社、1999年
DVD『エンカルタ総合大百科2004』、マイクロソフト社、2004年

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