見出し画像

Lost Samurai─新渡戸稲造の『武士道』(6)(1993)

9 中国と日本
 中国皇帝は東アジアにおける政治的・経済的・宗教的・文化的中心である。皇帝は天の権威を代行、表象する祭祀者としては天子であり、天命を受けて世俗世界に君臨する統治者としては皇帝である。天を中心として組み立てられた王朝の秩序は、天=皇帝(天子)=人民という階層的な上下関係を形成したが、この秩序は、同心円的に徳が広がっていくように、直轄地域の外部の周辺諸国や民族にも波及するものと考えられている。天下万国を治める皇帝の徳をしたって遠方から朝貢する者は「王」として冊封され、皇帝に臣従して朝貢の使節を皇帝の元に送らなければならない。こうして中華皇帝を中心とする広域的で重層的な地域秩序が形成される。

 11世紀から13世紀後半まで続いた日宋貿易において、中国の銅銭は日本にとって主要な輸入品である。金=銅の中国と日本の相場の交換レートの差を利用して、日本側が利益を上げる目的もあったが、中国通貨がこの地域の基軸通貨だったわけだ。そもそも明朝にとって前王朝の宋銭は国内では経済的混乱につながるだけで邪魔である。。

 日本語の慣用句や熟語など中国古典に由来するものが多いし、15世紀後半に侘び茶を創始した村田珠光は茶の世界を唐物趣味を和様化するプロセスと捉え、ある手紙の中で、茶の湯の大きな目標は「和漢の境をまぎらかす事」と記している。朝鮮や琉球と違い、日本が中国と朝易と冊封のシステムに参加している時期は短いが、交易自体は続いている。華夷秩序は、清朝の末期まで存続したけれども、日清戦争によって最終的に崩壊する。

 言うまでもなく、実際には、こうしたイデオロギーにもかかわらず、中国は内陸アジアの動向によって左右されている。針治療は、一般には、中国に起源があると信じられているけれども、中央アジアにいたトルコ人が4、5000年以上前に行っていたこの医療技術が中国に伝わったという説も有力である。事実、ウィグル人たちが正統的な治療として針について書いた古代の文献の存在が確認されている。アジアの歴史の中心は、長い間、中国ではなく、ユーラシアの東西交易路である内陸アジアにほかならない。

 内陸の人々が自らの手で記録を残していないために、マイナーな勢力と見なされてきたが、中国側の文献であっても、当時の力関係を読みとることは可能である。司馬遷は、『史記』の中で、漢の高祖よりも、匈奴の冒頓単于(ぼくとつぜんう)を賞賛している。また、高地での生活により強靭となった心肺機能を持つチベット人は、自主的に武力を放棄するまでは、向かうところ敵なしであり、7世紀初めにチベットを統一したソンツェン・ガンポ王は唐から文成公主を娶っているし、元や清といった漢民族以外の王朝も中国では成立している。「記録と言うとごく簡単に考える人があるが、私は、記録は実におそろしいと思う。記録が大がかりになれば世界の記録になるし、世界の記録をなすものは自然、世界をどう見なおし考えなおすことになるからである」(武田泰淳『司馬遷─史記の世界』)。

 そもそも武士道が支配者階級である武士の道徳であるとしても、被支配者階級には適用されない。「日本」は近代によって形成されたのであり、それ以前、幕府という中央政府があったとしても、各地域は大幅な自治が認められている。武家の強い江戸と商家の影響力がある上方は文化的に大きく異なっている。「侍の支配の少なかった歴史のゆえか、弱い軍隊を持っていることが自慢のような、大阪や京都で育った。軍国主義の時代としては、中学も航行も自由を標榜していたし、家庭も中流リベラル」(森毅『戦争のメタファー』)。

 また、堺の和菓子屋に生まれた与謝野晶子が日露戦争に対し「君死にたまふこと勿れ」と書くとき、戦争が彼女の出身階級である商家の道徳と相反することを告げている。戦争に参加するのは武士であって、商人ではない。武士道のイデオロギーは武家には適用できるかもしれないが、商家とは無縁である。

 言うまでもなく、近代軍は身分制を解体して成立する。兵隊には武士も商人も関係ない。武士道は、当然、近代軍のイデオロギーにはなり得ない。三島由紀夫は市ヶ谷駐屯地で自衛隊員に「君たちは武士だろう」と呼びかけているが、彼は近代をまったく理解していない。

 ところが、中国ではこうした乖離はありえない。中国の東アジア文化圏における文化的ヘゲモニーの重荷は、張競の『美女とは何か―日中美人の文化史』によると、女性を描いた絵画の日中の違いが明瞭に示している。描写すべてに意味がある。日本の美人画の中の女性は細長い輪郭、目が細く、鼻筋が通り、おちょぼ口で、腰が細い。絵師は顔の単調さを口の描きを工夫して補っている。江戸期の日本人は細めが好きだったようである。中国においては、二重まぶた、うらなり顔、太め、眉が目から離れて描かれている。お歯黒の習慣は中国にはなく、歯は白いほどよいとされている。纏足の不安定さが絵画を制約し、女性の姿勢は立つか座るかしかない。

 対する日本の美人画の女性の姿勢は自由である。鈴木春信や喜多川歌麿の浮世絵には、女性が手紙を読んでいる姿もあるが、それによって、男女関係を想像させる。東アジア文化は世界で最も眉にこだわった美意識を持っており、彼女たちが実の眉を持っていることで、職業が推測できる。日本で、遊女は眉をそらない。この錦絵の世界は町人文化に立脚している。日本は文化的中心でないがゆえに、規制が少なく、美人画において、儒教道徳の描写を目標にしていた中国に対して、エロティシズムを追求できる。

 中国では、宮廷や家庭を描かなければならない。文化的中心である以上、支配者と商人も文化を別にできない。佳人薄命のように、美人は家庭にとって不吉であるから、良妻賢母を選ぶ必要がある。楊貴妃が不幸をもたらした典型であったため、逆に、彼女をモデルにした場合、悪い見本として、例外的にエロティックな描写が可能になる。本音と建前の分離は、文化的ヘゲモニーを守り続けなければならないために、中国芸術ではありえない。

I couldn't escape this feeling
With my China Girl
I'm just a wreck without
My little China Girl
I'd hear hearts beating
Loud as thunder
See the stars crashing

I'm a mess without
My China Girl
Wake up mornings, there's
No China Girl
I'd hear hearts beating
Loud as thunder
I'd see stars crashing down

I'd feel tragic
Like I was Marlon Brando
When I'd look at my China Girl
I could pretend that nothing
Really meant too much
When I'd look at my China Girl

I'd stumble into town
Just like a sacred cow
Visions of swastikas in my head
And plans for everyone
It's in the white of my eyes

My little China Girl
You shouldn't mess with me
I'll ruin everything you are
I'll give you television
I'll give you eyes of blue
I'll give you men who want to rule the world

And when I get excited
My little China Girl says,
"Oh Jimmy, just shut your mouth."
She says, "Shhhh..."
(Iggy Pop “China Girl”)

 中国は、近代以前、日本にとって父である。父を殺し、父の痕跡を抹殺することに近代日本は躍起になっていく。日清戦争の勝利後、新渡戸が儒教道徳に関してではなく、武士道について書くとき、中国に対する優越感が顕在化してくる。日本には中国という父はいないというわけだ。「人類を全体として見ても、また個々人として考えて見ても、その一番重大で、かつ最初の犯罪が父親殺しであるという主張の存在することはあまねく知られている。いすれにせよ、罪悪感の主要な源泉が父親殺しにあることは間違いない」、「少年の父親にたいする関係は、われわれの用語でいえば、アンビヴァレントなものである。競争者としての父親を亡きものにしたいという憎悪感のほかに、父親に対する一定度の愛情が存するというのが通常である」(ジークムント・フロイト『ドストエフスキーと父親殺し』)。

 新渡戸は日清戦争の勝利を武士道精神の賜物と信じていたけれども、東アジア文化圏の中心という重荷により、中国は、日本と違い、容易には近代化に踏み切れない。清に勝ったのは武士道ではなく、西洋近代にすぎない。「私たち日本人の使う漢字熟語も中国語のルールに従っているわけですが、最近の日本人は漢字を駆使して単語を造る能力(造語能力)が低下気味です。あまりに安直なカタカナ外来語の氾濫(はんらん)ぶりもそうですが、たとえば駅にゆくと『券売機(ケンバイキ)』なるものがあります。あれは正しくは『売券(バイケン)』機と言わなければヘンではありませんか。『券ヲ売ル』機械でしょ、すなわち『券』は『売』の目的語のはずですから、『売券』とVOに並べるべきです。『売名』行為、『売国』奴など、いずれもVOです。また、近年、京都の寺院が古都税に反対して『志納金(シノウキン)』なるものを考え出しましたが、これは『志ヲ納メル』金でしょう。それなら、『納志金』と逆にしなければ、漢語のルールに合いません」(『はじめての中国語』)。

 大正以前に考案・変更された漢語の多くが現代中国語の語彙に取り入れられている。近代を先に西洋から輸入したのは日本であり、自然と近代的意味を帯びた漢語の単語は日本産になっている。しかし、時代を経るにつれ、西洋語から漢語への反訳能力は落ちていく。

I did some time in Tokyo in a dojo
"earned karate and kung fu
And judo because you know
I’m a fuckin’ samurai from the darkside
Eating fried rice’ and I lie
I’m not Bruce Lee, I’m not Chinese
I’m on the trapeze’ and I’m free
In Nagasaki’ I’m drinking saki
And watching hockey in my jockeys
And I’m a servant to technology
I’m a fuckin’ samurai’ from the darkside
Eating fried rice’ and I lie
I’m not Bruce Lee, I’m not Chinese
I’m on the trapeze’ and I’m free
In my Nissan’ I put the priest on
And I head out on the highway to Budokan
I’m metal basted and domo wasted
I’m a fuckin’ samurai from the darkside
Eating fried rice’ and I lie
I’m not Bruce Lee, I’m not Chinese
I’m on the trapeze’ and I’m free
(Handsome Devil “’Samurai’ Song”)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?