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植民地支配における日本語教育と日本近代文学の成立(5)(2004)

5 近代文学「らしい」文体の模索
 『浮雲』よりやや遅れて、1890年(明治23年)に発表された森鴎外の『舞姫』は一人称で記され、語り手と主人公が同一である。一人称は近代の出発、すなわち身分制から解き放たれた個人の登場に対応するが、三人称は他者による規定、すなわち市場経済の出現に呼応する。

 大量に発行された国債の円滑な取引を実現すると同時に、株式会社の資金調達の手段を提供する目的で、明治政府は、1874年(明治7年)、株式取引条例を発布したけれども、江戸時代に見られた投機的な取引を禁止したため、政府の思惑は外れてしまう。そこで、政府は、1878年、新たに投機的取引も緩和した株式取引所条例を制定し、東京株式取引所(現東京証券取引所)と大阪株式取引所(現大阪証券取引所)を設立する。確かに、1881年の段階では取引所株と国立銀行株などわずか9銘柄を扱っているにすぎず、取引の中心は国債だったが、1901年(明治34年)には109銘柄、1931年(昭和6年)に至ると1,065銘柄にまで取扱銘柄が増加している。ただし、戦前の取引所の取引は、先物取引で用いられる差金決済による定期決済が中心で、しかも勘に頼る業者・投資家がほとんどであったため、投機色が強く、また、証券の民主化も進んでいない。

 『舞姫』が発表されたのはちょうど市場経済が確立されていく時期にあたる。この頃の鴎外の文体は近代化が進みながらも、語尾に言文一致体を採用していないように、身分制を完全には払拭できないでいる現状を体現している。

 鴎外は、『舞姫』において、次のような文体を用いている。

 げに東に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず、學問こそ猶心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ變り易きをも悟り得たり。きのふの是はけふの非なるわが瞬間の感觸を、筆に寫して誰にか見せむ。これや日記の成らぬ縁故なる、あらず、これには別に故あり。

 鴎外は、主語や活用語尾を別にすれば、近代文学の修辞法を使っているものの、漢文を引きずっている。と同時に、ドイツ語に影響を受けた鴎外には、二葉亭のような体をめぐる苦悩は深くない。彼は体的見方を強調する必要はなく、時制を統一している。

 日本近代文学の文体は大きく文語体と口語体に分類される。前者は和文体と漢文体にわけられ、それらには和文体・雅俗折衷文体・和漢混合文体・漢文訓読体の四種類が含まれる。和文体は、平安時代の和文体から発展してきたとされ、明治中期まで使われている。樋口一様の『たけくらべ』(1895)が代表的な作品である。雅俗折衷文体は中世以来の和漢混合文に、俗語が交じっており、主として、会話の部分に俗語が用いられているもので、泉鏡花の『夜行巡査』(1895)に端的に示されている。

 この『舞姫』に典型的に見られる和漢混合文体は和文体と漢文訓読体が混合した文体で、和文脈で漢語を入れることが多い。漢文訓読体は明治期の評論に多く用いられる漢文の書き下し文のような文体であり、体言止や対句を使う。先の二つの文体は和文体、漢文訓読体は漢文体に属し、和漢混合文体は和文体と漢文体の混合である。

 鴎外は『舞姫』において近代文学「らしい文体」ではなく、登場人物に「ふさわしい文体」を優先させている。例えば、エリスに平安朝の物語文学の文体を用いている。ドイツ人女性がそのような口調で話すはずもないのだが、彼女に「ふさわしい」としてその文体を選んでいる。モダニズム文学の先取りとも見えるけれども、近代文学の文体がまだ確立していない時期であるから、過渡期の試みと理解すべきである。

 口語体は言文一致体・欧文体・口語文体の三種類が含まれる。言文一致体はすでに述べてきた通りであり、口語文体は今日使われている文体である。欧文体は国木田独歩の文体が代表であって、欧文体は欧文の翻訳の文体を取り入れ、抽象名詞を主語としたり、修飾部がかったりという特徴を持っている。

 国木田独歩は、『浮雲』第二編発表から10年後の1898年(明治31年)に公表した『武蔵野』をその欧文体で次のように書き始めている。

 「武蔵野の俤(おもかげ)は今わずかに入間郡に残れり」と自分は文政年間にできた地図で見たことがある。そしてその地図に入間郡「小手指原久米川は古戦場なり太平記元弘三年五月十一日源平小手指原にて戦うこと一日がうちに三十余たび日暮れは平家三里退きて久米川に陣を取る明れば源氏久米川の陣へ押寄せると載せたるはこのあたりなるべし」と書きこんであるのを読んだことがある。自分は武蔵野の跡のわずかに残っている処とは定めてこの古戦場あたりではあるまいかと思って、一度行ってみるつもりでいてまだ行かないが実際は今もやはりそのとおりであろうかと危ぶんでいる。ともかく、画や歌でばかり想像している武蔵野をその俤ばかりでも見たいものとは自分ばかりの願いではあるまい。それほどの武蔵野が今ははたしていかがであるか、自分は詳わしくこの問に答えて自分を満足させたいとの望みを起こしたことはじつに一年前の事であって、今はますますこの望みが大きくなってきた。
 さてこの望みがはたして自分の力で達せらるるであろうか。自分はできないとはいわぬ。容易でないと信じている、それだけ自分は今の武蔵野に趣味を感じている。たぶん同感の人もすくなからぬことと思う。
 それで今、すこしく端緒(たんしょ)をここに開いて、秋から冬へかけての自分の見て感じたところを書いて自分の望みの一少部分を果したい。まず自分がかの問に下すべき答は武蔵野の美今も昔に劣らずとの一語である。昔の武蔵野は実地見てどんなに美であったことやら、それは想像にも及ばんほどであったに相違あるまいが、自分が今見る武蔵野の美しさはかかる誇張的の断案を下さしむるほどに自分を動かしているのである。自分は武蔵野の美といった、美といわんよりむしろ詩趣(ししゅ)といいたい、そのほうが適切と思われる。

 『武蔵野』の文体は円朝の落語や漢文、すなわち過去から解き放たれ、欧米の文学の影響下にある。国木田独歩は文政年間の地図の話から始めている。伝統的に武蔵野の風景は西行の眼で語られる。すすき野原の草庵を訪れた西行が夜空の月を愛でている。しかし、独歩が武蔵小野に見る風景はこれとは違う。昼の武蔵野の雑木林はツルゲーネフの小説で描かれた風景に似ている。語り手は武蔵野の風景に近代文学のそれを見出しっている。日本医も近代文学の風景がある。それなら、日本近代文学も可能だ。

 この作業は主観によって行われている。前近代における風景は規範の共有を前提にしている。偉大な西行の来訪として武蔵野の風景は共時的・通時的に語り継がれている。しかし、武蔵野の近代文学の風景としての発見は作者の価値観を反映している。それは私の領域であって、公から自立している。政教分離に伴い、近代では価値観の選択が個人に委ねられている。公私分離を踏まえて、独歩は近代文学の風景を発見する。

 言文一致体から欧文体の間に日清戦争、欧文体から口語文体までの間には日露戦争がそれぞれ起きている。日清戦争から日露戦争の間、国木田独歩や正宗白鳥のロマン主義的な作品が発表されている。これは、1980年代、世界第2位の経済大国になった際、ロマンティック・アイロニーに基づいた村上春樹の作品が流行した状況と似ている。

 父殺しとも言うべき日清戦争の勝利は、日本「国民」の間に、中華文明に対するコンプレックスを払拭しただけでなく、中華文明への蔑視さえ育んでいる。軍事力の勝利がすべての領域における勝利と錯覚され、脱亜主義が支配的になる。確かに、日清戦争による国際的地位向上に伴い、1894年(明治27年)、1858年(安政5年)の安政五カ国条約のうち、領事裁判権が廃止されている。けれども、この時点では入欧の意識はまだない。安政五カ国条約の最後の懸案だった関税自主権を獲得するのは1911年(明治44年)である。1895年、日本はロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉に屈服し、30,000,000両の賠償金と引き換えに、遼東半島を清に変換する。国木田独歩の『武蔵野』の欧文体には歴史との断絶と同時に欧米へのコンプレックスが見られる。

 日露戦争によって、初めて、日本「国民」の中に入欧の意識が芽生える。ロシアは日本近代文学の源泉であり、ロシアへの勝利は二度目の父殺しを意味する。二度の父殺しを経験した後、日本近代文学は過去から断絶され、口語文体が主流として確立していく。

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