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くだらんマネごととパロディー(2007)

くだらんマネごととパロディー
Saven Satow
Apr. 08, 2007

「物笑いにならぬために、どれほど頭を働かさねばならぬかを、人は思ってもいない」。
セバスチャン・シャンフォール

 エンターテイナーのグッチ裕三は、2007年3月25日付『朝日新聞』によると、コミック・バンドを始めた理由を述べている。高校を出た1970年、プロのバンドのメンバーとなり、その5年後にアメリカへ進出したが、「大恥かいて、ノックアウトされて」、帰ってこざるを得なくなっている。「くだらんマネごとをやっていたと分った。そんな自分たちの音楽はもう、パロディーにしちゃうしかない」。自分のやっていたことが自己満足な「くだらんマネごと」と気づき、自己批評に基づく「パロディー」に方針転換した時、彼はエンターテイナーとしてブレークしている。

 「パロディー(Parody)」はギリシア語の「別の歌」を語源とし、茶化す行為であるが、模倣している自分自身も笑いの対象とする。自分自身が見えていなければ、「パロディー」はできない。カナダの文芸批評家ノースロップ・フライは、『批評の解剖』の中で、独創性とはそうした積極的な模倣から生じるのであり、いわゆる猿真似は消極的な模倣にすぎないと記している。

 安倍晋三内閣総理大臣が誕生して以来、補佐官や日本版NSC、戦略会議などアメリカの制度をずいぶんと多く導入している。また、御手洗富士夫会長の経団連も、1980年代のレーガノミックスを日本の財界が取り入れることを提唱している。安倍政権の周辺の人たちは80年代にアメリカに滞在していた経験があり、その時期を理想化している。しかし、それらは自分が見えている「パロディー」であるとは言い難く、どこかアメリカの「くだらんマネごと」に映ってならない。何か理由があってのことと言うよりも、真似そのものに満足を見出している。しかも、やたらと復古主義的で、その姿はグロテスクである。

 パロディーは見ていて笑えるものであり、その芸に驚嘆させられることさえある。他方、「くだらんマネごと」は陳腐で、嘲笑を誘うだけだ。

 安倍政権はイノベーションによる経済成長を掲げている。子の場合の技術革新はパラダイム・シフトを伴う新製品である。その際、重点が明確に絞られているわけでもない。これも技術革新志向のアメリカの「くだらんマネごと」であって、日本の産業の特徴を無視していると言わざるを得ない。

 アメリカの産業は技術革新と標準化の時期に発達する。例えば、コンピュータが生まれ、情報技術がネットワーク化し、規格化されていく中で、アメリカのICT産業は圧倒的な強みを発揮する。ところが、情報技術がグローバル化すると、その優位は急速に衰えてしまう。アメリカはイノベーション頼りの産業界である。

 けれども、そんなに画期的な技術革新が、雨後の竹の子の如く、次々と生まれるはずもないし、どれがそれに値するのか予測するのも極めて困難である。当然、経済の浮き沈みが激しくなる。

 一方、日本の産業は、戦後を振り返って見ると、技術の応用期に発展を遂げてきている。日米のどちらが優れているかという問題ではない。歴史や社会、産業編成などの違いである。日本の産業界は技術革新ではなく、応用技術の生産を選んでいる。言ってみれば、それは「アメリカのパロディーとしての日本」である。

 日本もフロントランナーになったのだから、アメリカ流のイノベーションで行くべきだと考えるのは短絡的だ。日本企業は部分をすり合わせて全体に仕上げる商品に強い。自動車のように、企業によって部品の規格が違うような産業で国際競争力がある。どの産業もイノベーションで強くなるわけでもないだろう。

 ヨゼフ・A・シュンペーターは、『経済発展の理論』(1912)の中で、「発明」、すなわち「インベンション」と「技術革新」、すなわち「イノベーション」を区別し、当時軽視されていた後者の重要性を強調している。どれだけ科学的・技術的に画期的であっても、市場が受け入れなければ意味がない。イノベーションには、発見という最初の行為と劣らないほどの意欲と想像力を必要とする。むしろ、人々の興味を誘うだけの新規な発明品よりも、イノベーションは経済の進歩に貢献している。イノベーションは生産方式や組織形態、資金調達、材料・部品の供給源、市場認識の再考を促すからである。

 日本の産業はアメリカのイノベーションのイノベーションだと言える。このような相違点があるのに、イノベーションを通じた経済成長が日本の目指すべき方向なのかは、はなはだ疑問である。もちろん、この件は一例にすぎない。

 模倣されたものを見る時、それを行った人がどれだけ自分が見ているのかは明らかになるものだ。安部政権の周辺が暮らしに密接な問題に眼を向けず、暴言を繰り返すのは、自己批評をせず、自己満足に浸り、「くだらんマネごと」をしていることと決して無縁ではない。「形をA級にしたところで、せいぜいが既成のA級に伍してとの自己満足程度で、そのA級文化だって最初はB級文化だったのだ。(略)むしろ、B級文化の渦の中から出てくるものが、時代を変える。帝劇より浅草オペラ」(森毅『B級文化のすすめ』)。
〈了〉
参照文献
J・A・シュムペーター、『経済発展の理論―企業者利潤・資本・信用・利子および景気の回転に関する一研究』上下、塩野谷祐一他訳、岩波文庫、1977年
ノースロップ・フライ、『批評の解剖』、海老根宏他訳、法政大学出版局、1980年
森谷正規、『世界の産業再編成』、放送大学教育振興会、2004年
森毅、『世紀末のながめ』、毎日新聞社、1994年

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