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武者小路実篤、あるいはAnarchy in JP(3)(2004)

第3章 竹竿を振り廻す男
 武者小路自身は、病身の母の近くに住むため、一九二六年に村を離れ、村外会員となるものの、賛同者が運営を続ける。新しき村には二種類の会員がある。村の中で暮らす村内会員と理念に共鳴して外から協力する村外会員である。村外会員には会費を納めれば、誰でもなれる。木城の村は県営ダムの建設によって農地の大半が水没することになり、三九年には埼玉県入間郡毛呂山町に「東の村」が建設される。「東の村」は四八年に財団法人となり、養鶏・稲作・畑作・パン製造・陶芸・椎茸・茶の栽培を活動として続けている。言うまでもなく、最大の目標は農業活動ではなく、あくまでも真に平和な「自他共生」の世界の実現に寄与することである。「新しき」と冠しているのに、原始共産制への回帰は復古主義的ではないかという非難はあたらない。この「新しき」は社会の新陳代謝の促進を意味するからだ。復古主義や農本主義ではなく、「生れ死ぬ。死ぬ生れる。かくて人生は常に新しく、常に新鮮である」(武者小路『若き日の思い出』)。

 現在、入り口に「この道より我を生かす道なしこの道を歩く」が掲げられている「新しき村」は付近の白木八重牧場や川原自然公園などとともに尾鈴県立自然公園の一部に指定されている。バイオリニストの石川静もここで生まれている。”Destroy everything. That's all well and fine, but you got to offer something in it's place. Since I always have a point and purpose to what I do, that’s why people accuse me of being calculated. It's the way I am. I always know my next move. I could never conjure up a death wish, this is all I have is life. I don't know what comes next, and frankly I'm in no rush to find out. I don't believe in playing a martyr just for the sheer hell of it. And for something as childish as Rock 'N' Roll is not on”(Johnny Rotten).

 こうしたコミューンの活動は新しき村だけではない。コミューンは左右や宗教を問わず、資本主義体制の発展と共に、何度も提唱されている。コミューンは、もともと、中世の封建君主あるいは国王から自治権を認める認可状を得た市民あるいは町民の団体を意味する。中世のコミューンはフランスやイングランド、イタリア、スペインなどの諸国に存在している。その後、一八七一年のパリ・コミューン以来、主として社会主義的な自治政府に用いられるようになっている。

 日本でも、明治時代に西田天香の一燈園や伊藤証信の無我苑など宗教を基盤としたユートピア実現の試みが生まれ、河上肇も参加している。また、宮沢賢治や満州事変を指揮した石原莞爾もコミューンを建設しようとしている。第二次世界大戦後には、ヤマギシ会や大倭紫陽花邑《おおやまとあじさいむら》といったコミューンも始まっている。カウンター・カルチャーの時代には、世界的に、工業化した都市の中心から離れたところで新しいライフ・スタイルを追求するヒッピーによって、小さな農業コミューンがつくられている。

 正直、コミューンは、旧ソ連のコルホーズ・ソフホーズや中国の人民公社を含めて、ほとんどは成功したとは言い難い。しかし、イスラエルのキブツは数少ない例外である。一九〇九年に最初のキブツがガリラヤ湖畔にできて以来、増加し続け、今日では二七〇近くある。その人口はイスラエルの全人口の三%に当たる一三万人であり、農業生産は全体の四〇%、輸出向け工場製品の約八%を占めている。ダヴィッド・ベングリオンやゴルダ・メイア、イガエル・アロンといった政治指導者もキブツ出身者である。

 コミューンは、長年、現実の資本主義・国民国家体制によって押しつぶされてしまうのがオチであると揶揄されてきている。けれども、今、コミューンはネット上で無数にある。チャットや掲示板もそうだったが、ブログやソーシャル・ネットワーキングは主流のコミューンと見なせるだろう。合衆国の大統領選挙ではブロガーの発言は無視できない影響力を持っている。さらに、ネット・ラジオによってコミューンが形成されている。コミューンが新たな社交の場であり、新たな公共性の構築として機能している。コミューンを空想家の戯言と切り捨てる時代は終わっている。

 新しき村が他のコミューンと違うのは、武者小路がこの試みに向けられた嘲笑に反発もせず、自覚的だった点にある。

自分は自分を笑ってやりたい。
腹の底から笑ってやりたい。

さうして、

俺はお前に愛想をつかしてきたと云ってやりたい。
もう少しお前は豪(えら)いかと思っていたと云ってやりたい。

かう云つても腹がたたないかと云ってやりたい。

さうして、

腹の底から笑ってやりたい。
(武者小路『笑ってやりたい 』)

 笑うよりも笑われることの尊さを坂口安吾は、『ピエロ伝導者』において、次のように始めている。

 空にある星を一つ欲しいと思いませんか? 思わない? そんなら、君と話をしない。屋根の上で、竹竿を振り廻す男がいる。みんなゲラゲラ笑ってそれを眺めている。子供達まであいつは気違いだね、などと言う。僕も思う。これは笑わない奴の方が、よっぽどどうかしている、と。そして我々は、痛快に彼と竹竿を、笑殺しようではないか!
 しかし君の心は言いはしないか? 竹竿を振り廻しても所詮はとどかないのだから、だから僕は振り廻す愚をしないのだ、と。もしそうとすれば、それはあきらめているだけの話だ。君は決して星が欲しくないわけではない。しかし僕は、そういう反省を君に要求しようと思わない。又、「大人」になって、人に笑われずに人を笑うことが、君をそんなに偉くするだろうか? なぞとききはしない。その質問は君を不愉快にし、又もし君が、考え深い感傷家なら、自分の身の上を思いやって悲しみを深めるに違いないから。
 僕は礼儀を守ろう! 僕等の聖地に曰く、およそイエス・ノオをたずねべからず、そは本能の犯す最大の悪徳なればなり、と。又曰く、およそイエス・ノオをたずねべからず。犬は吠ゆ、これは悲しむべし、人は吠えず、吠ゆべきか、吠えざるべきかに迷い、迷いて吠えず、故に甚しく人なり、と。
 竹竿を振り廻す男よ、君はただ常に笑われてい給え。決して見物に向って、「君達の心にきいてみろ!」と叫んではならない。「笑い」のねうちを安く見積り給うな。笑い声は、音響としては騒々しいものであるけれど、人生の流れの上では、ただ静寂な跫音である時がある。竹竿を振り廻す男よ、君の噴飯すべき行動の中に、泪や感慨の裏打ちを暗示してはならない。そして、それをしないために、君の芸術は、一段と高尚な、そして静かなものになる。

 武者小路は「竹竿を振り廻す男」である。新しき村は夜空の星をとろうと、「竹竿を振り廻す」ことかもしれない。けれども、「決して見物に向って、『君達の心にきいてみろ!』と叫んではならない。『笑い』のねうちを安く見積り給うな。笑い声は、音響としては騒々しいものであるけれど、人生の流れの上では、ただ静寂な跫音である時がある」。「息をする限り、希望を抱く(dum spiro, spero)」。

 武者小路には失敗したら、そのとき考えようという楽天さがある。「自分の一番自信があるのは、人間としての自分である。特殊の人間、専門的人間とせず、ただあたりまえの人間として、つまり幸福な楽天家としての自分に自信がある」。禁欲的快楽主義者が彼にはぴったりだ。生活感がまったく漂わない。ギラギラとした野心など微塵もない。恵まれた家庭環境に対する負い目もない。育ちのよさからくる怖いもの知らずで新し物好き、冒険心が彼を動かし続ける。彼にはトラウマがない。”I'd love to have been born into a wealthy family. I might have turned out even more marvellous than I am now”(Johnny Rotten).

 屋根で竹竿を振り廻す男に向かって、その親父が尋ねた。「おい、おめえ、何やってんだ?」
 「あっ、父ちゃん。うん、俺、星をとろうと思ってんだ」。
 それを聞いて、呆れるように、親父はこう言った。
 「馬鹿だなあ、おめえは。そんなことできるわけねえだろ。ありゃ、雨が落ちてくる穴だ」。

 そういう「ピエロ伝道者」が始めた新しき村はペーソスのコミューンである。彼はすべてにおいてペーソスを追及している。ペーソスはほのぼのとしているけれども、実は、恐ろしい。「哀歓 (pathos)とは悲劇よりももっとゆるやかで、寛いだ気分のようだが、ずっと恐ろしい。その根本になっているものは一個人を村八分にすることで、それゆえにわれわれのいちばん深層の恐怖をかきたてるのだ。この恐怖は、比較的居心地よく、つき合いのいい地獄の幽霊よりもよっぽど深い」(フライ『批評の解剖』)。

 ペーソスは「いちばん深層の恐怖をかきたてる」が、その居心地のよさのために、トラウマを生じさせない。ペーソスはトラウマをやりすごさせる。「個人的なトラウマとその克服の物語が政治を動かしてしまうのが9・11後の世界」であるからこそ、武者小路のペーソスは必要とされている。「竹竿を振り廻す男よ、君の噴飯すべき行動の中に、泪や感慨の裏打ちを暗示してはならない。そして、それをしないために、君の芸術は、一段と高尚な、そして静かなものになる」。

仲良き事は美しき哉
(武者小路実篤)
〈了〉
参考文献
武者小路実篤、『武者小路実篤全集』全一八巻、小学館、一九八八─九一年
『日本文学アルバム11 武者小路実篤』、 筑摩書房、一九五五年

伊藤信吉、『ユートピア紀行 有島武郎 宮沢賢治 武者小路実篤』、講談社文芸文庫、一九九七年
柄谷行人編、『近代日本の批評 明治・大正篇』、福武書店、一九九二年
坂口安吾、『安吾全集14』、ちくま文庫、一九九〇年
中川孝、『武者小路実篤 その人と作品の解説』、皆美社、一九九五年
福田清人 『武者小路実篤』、清水書院、一九八四年
本多秋五、『「白樺」派の作家と作品』、未來社、一九六八年
エドワード・G・サイデンステッカー、『現代日本作家論』、佐伯彰一訳、 新潮社、一九六四年
ノースロップ・フライ、『批評の解剖』、海老根宏他訳、法政大学出版局、一九八〇年

DVD『エンカルタ総合大百科2004』、マイクロソフト社、二〇〇四年
セックス・ピストルズ、CD『勝手にしやがれ!!』、EMIミュージックジャパン、一九九一年
セックス・ピストルズ、CD『アナーキー・イン・ザ・UK』、EMIミュージックジャパン、一九九二年

新しき村・武者小路実篤記念美術館
http://www2u.biglobe.ne.jp/~sin_mura/
財団法人新しき村
http://www.atarashiki-mura.or.jp/

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