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天皇・三島由紀夫・卓越主義(6)(2022)

第6章 三島と全共闘
 三島は、討論会において、大正教養主義が嫌いだと学生に向かって次のように語っている。

「私は今までどうしても日本の知識人というものが、思想というものに力があって、それだけで人間の上に君臨しているという形が嫌いで嫌いでたまらなかった。
 諸君がやったことの全部は肯定しないけれども、ある日本の大正教養主義から来た、知識人のうぬぼれというものの鼻をたたき割ったという功績は絶対に認めます」。

 すでに述べた通り、大正教養主義における最も中心的な思想はカント主義である。その倫理は動機を重視する義務論で、行動の卓越性を尊ぶ卓越主義を批判する。当然、三島は大正教養主義を嫌い、反大正デモクラシーである。戦後民主主義は大正デモクラシーの復活・強化であるので、彼はそれにも反対する。一方、全共闘は、さまざまな思想を含んでいるものの、戦後民主主義に対する異議申し立てを示している。その点で三島が彼らにシンパシーを抱いても不思議ではない。、

 しかし、全共闘が三島が望むような天皇を連帯の根拠に置くことなどない。彼らは、少なからず、主体の意識や実践を重視する主観主義である。それはカント主義批判ではあるが、卓越主義ではない。全共闘はカント主義に対する初期マルクス主義による批判である。三島はカント主義批判は共通していても、卓越主義の立場であり、連帯は難しい。

 そもそも「天皇制」という概念自体がマルクス主義から生まれたものである。32年テーゼが日本の支配体制における地主や独占資本と並ぶ3つの柱として使ったのが最初だ。マルクス主義の理論・モデルに基づく構成概念が、戦後、アカデミズムで広く使われる述語に発展している。

 近代において個人は自由で平等、自立しているので、お互いを主体として扱わなければならない。けれども、資本主義下の労働者は客体、すなわち物や道具と見なされている。労働者は主体的に階級意識に目覚め、連帯して実践に取り組み、資本主義社会を打倒しなければならない。その時、労働者は主体性が回復される。学生は労働者階級ではない。しかし、傍観していることは資本主義の非人間性を容認しているも同様である。学生も主体的に階級意識を共有して資本主義に対する闘争を実践しなければならない。帝国主義はレーニンにより資本主義と結びつけられ、その闘争の拡張に位置付けられる。

 全共闘の戦後民主主義批判もこの主体の回復に要約できる。占領が集結して独立したはずなのに、、日本はアメリカの客体にすぎず、主体を回復していない。全共闘の目標は主体の回復である。天皇が個々に入り込む余地はない。教養主義は教養を積むことで、自由で平等、自立した個人になれるとする。しかし、そうしようにも、資本主義社会が主体性を奪うのだから。教養主義は傍観者である。

 こうした主体主義により実存主義と接近する運動も登場する。また、抑圧的な教育に対して生徒や学生が主体性の回復のため、高校や大学における闘争も出現する。さらに、国外の民族解放闘争との連帯に進む勢力も現れる。

 卓越主義は規範の共有を前提にする。三島にとって天皇がその具象である。一方、学生は主体の回復を目指しているので、共同体の規範に背を向ける。彼らが「天皇」と口にするはずもない。「私は諸君の熱情は信じます。これだけは信じます。他のものは一切信じないとしても、これだけは信じるということを分かっていただきたい」(三島由紀夫)。

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