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ジョン・スチュアートとハリエット(2)(2005)

4  A House Is Not A Home
 その一方で、この厳格で情操性が欠落した教育はジョン・スチュアートを神経質にしてしまい、二〇歳には「鬱病」と呼んでいいほど深刻な状態に陥っている。一八二二年から翌年にかけて、ベンサム派が功利主義協会を設立し、研究や討論の場にジョン・スチュアートも出席して、指導的な地位を任されるようになり、ベンサムの功利主義立法やリカードゥの自由主義経済、マルサスの産児制限運動を支持する哲学的急進派の機関誌『ウェストミンスター・レビュー(Westminster Review)』に積極的に寄稿して功利主義の宣伝活動を精力的に行っている。

A chair is still a chair
Even when there's no one sitting there
But a chair is not a house
And a house is not a home
When there's no one there to hold you tight,
And no one there you can kiss good night.

A room is still a room
Even when there's nothing there but gloom;
But a room is not a house,
And a house is not a home
When the two of us are far apart
And one of us has a broken heart.

Now and then I call your name
And suddenly your face appears
But it's just a crazy game
When it ends it ends in tears.

Darling, have a heart,
Don't let one mistake keep us apart.
I'm not meant to live alone. Turn this house into a home.
When I climb the stair and turn the key,
Oh, please be there still in love with me.
(Hal David & Burt Bacharach “A House Is Not A Home”)

 ところが、一八二六年のある秋の朝、突然、得体の知れない憂鬱な気持ちに襲われ、ジョン・スチュアートはそれに一年以上も悩まされていく。「かりにおまえの生涯の目的が全部実現されたと考えて見よ。おまえの待望する制度や思想の改革が全部、今この瞬間に完全に成就できたと考えて見よ。これはおまえにとって果たして大きな喜びであり幸福であろうか」。『自伝』によると、こう二〇歳の青年は自問したが、彼の答えは「否!」である。その瞬間から「生涯を支えていた全基盤がガラガラとくずれ落ちた」。無気力になった彼は、ジャン=フランセ・マルモンテル(Jean-François Marmontelの『回想録(Mémoires)』を読んだことを境に何とか危機を脱し始める。

 「彼の父が死に、一家が悲嘆に暮れていた時、まだほんの子供だった彼に突如霊感が湧き出て、自分こそ一家のために何もかも引き受ける──一家の失ったものはすべて自分で埋め合わせしてやると自分も感じ、みなにも感じさせた」。この一節を目にした瞬間、ポロポロと涙が零れているのを知ったジョン・スチュアートは、心が砂漠の如くカラカラに乾ききっていたわけではなく、涙はただ伏流水のように隠れていただけで、自分の中にもオアシスがあり、感情がまだ確かに生きているとハッとする。

 さらに、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトやカール・マリア・フィン・ウェーバーといった初期のドイツ・オペラの作曲家の音楽に感動し、ウィリアム・ワーズワースやサミュエル・テイラー・コールリッジ、ジョージ・ゴードン・バイロンといったロマン主義者の少々情緒的な詩にも感銘を受け、クロード・アンリ・ド・ヴロイ・サン=シモンやシャルル・フーリエ、オーギュスト・コントなど明晰性と一貫性に欠け、めまぐるしく議論が移動するフランスの思想家の著作にも親しみ、忠実なるベンサム主義者から、その修正主義者へと立場をシフトしていく。

5 Make It Easy On Yourself
 品行方正で清く正しい男と評判の彼がその人妻とディナーを共にしたのは、芸術セラピーによって、この無力感から脱却した二年後であり、まさに感情の重要性を認識し、再生している過程の最中である。カチャカチャと静かに食器の音が響く中、誠実かつ抑制されながらも、気のきいたユーモアと楽しいおしゃべりがぎこちなかった場を和ませ、ジョンはすっかり上機嫌になって、「こんな嬉しそうなハリエットを見たのもいつ以来だろう?これでハリエットもきっとよくなってくれる」と安堵し、ハリエットとジョン・スチュアートは時々そっと目が合うと、高まっていく自分の気持ちに戸惑いつつも、「もしかしたら…でも、そんなことは…」と淡い期待を抱いてしまう。あの日はジョン・スチュアートにも、ハリエットにしても、さらにジョンにとっても、忘れえぬ日となる。「もしあの日がなかったら」と後にジョンは悔いことはあったけれども、「しかし、そうだったら、愛しいハリエットの表情は沈んだままで…いや、だいたい生きていただろうか」と苦悶する。

 ハリエットに関して、H・O・パッピ(H. O. Pappe)の『ジョン・スチュアート・ミルとハリエット・テイラーの神話(John Stuart Mill and the Harriet Taylor Myth)』(一九六二)のような「恋は盲目」の諺の好例であるという無礼な意見はなくなったものの、彼女がかなり知的素養を持っていたことはほぼ確認されているとしても、自分自身を超克する知性の持ち主だったというジョン・スチュアートの主張に承服しかねる立場も少なくない。フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエク(Friedrich August von Hayek)の『ジョン・スチュアート・ミルとハリエット・テイラー(John Stuart Mill and Harriet Taylor)』(一九五一)やルース・ボーチャード(Ruth Borchard)の『人間ジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill, the Man)』(一九五七)はハリエットのジョン・スチュアートへの影響を強く認めているし、マイケル・パック(Michael Packe)は、『ジョン・スチュアート・ミルの生涯(The Life of John Stuart Mill)』(一九五四)の中で、一八三二年以降、「ハリエットはミルの弟子から神託と女神になった」と記している。この見立ては、解釈によっては、彼女が彼にとってミューズであり、心理カウンセラーや精神分析家の役割を果たしたとも言い換えられる。
 ハリエットは、厳しすぎる態度で接し続けたため、恐怖心さえ抱くようになってしまったジェイムズに代わるジョン・スチュアートの新たな依存の対象だったのではないか、あるいは父の教育方針により極端な依存的傾向が身についてしまい、それを見つけなければ生きていけなくなった彼の求めた頼るべき対象だったのではないかという疑問が湧くのも当然であろう。

 ただ、父に対して複雑な感情を抱いていたとしても、彼がエディプス・コンプレックスに囚われていなかったのは間違いない。ジョン・スチュアートは、『自伝』の中で、強烈な家父長的特性の父親に関してはかなりのスペースを割いているのに対し、不可思議なまでに、母親に一切言及しておらず、彼女がどういう人物、あるいは母親で、彼がどのような感情を抱いていたのか直接的に知ることはできないが、その無視しているという態度からそれがうかがわれる。一八五四年、母が危篤に陥ったときでさえ、いくら妹から懇願されても、ハリエットとの交際を反対されたことを理由に、ジョン・スチュアートは見舞いに行くのを拒んでいる。ハリエットが、ジョン・スチュアートにとって、父どころか、母の役割も果たしたのではないかとう説が展開されるのも無理からぬことである。

 ジョン・スチュアートとハリエットは、最初、人目につかぬようにしていたが、次第におおっぴらに逢うようになり、彼女がいそいそと外出して残されたジョンと子供たちだけで夕食をとることもしばしばである。一大スキャンダルに発展しそうなはずだが、ジョン・スチュアートとハリエットは不適切な関係に至ることはなく、傷心に苦しみながらも、ジョンは彼を脅したり、痛い目にあわせたりすることもない。ハリエットにしても、何度か、ジョン・スチュアートを忘れようと思ったけれども、それはできず、ジョンも妻に元の生活に戻らないかと説得したが、徒労に終わる。ハリエットはジョンと離婚して、ジョン・スチュアートと一緒になることを望み、それを夫に告げたのも当然のなりゆきであったけれども、彼女への未練を断ち切れない彼はそれだけは承諾しない。子供のことも頭にあったけれども、それ以上に、「やっぱりハリエットを愛している」と自嘲するジョンは、彼女が応えてくれるかどうかは別にして、彼なりの姿勢で想うことを決意する。結婚生活を破綻させたのは妻の側であり、夫に非はなく、周囲は彼に同情しこそしても、なじりなどしない。それでなくとも、当時の判例・法律では、離婚は必ずしも容易ではなく、再婚前提の離婚となると、ヴィクトリア朝の世間の目が冷たいことは想像するに難くなく、また、夫と別居したまま、かの哲学者と一緒に暮らすことは社会的な自殺を選ぶのに等しい。

 一八三六年、ジョン・スチュアートが体調を崩してパリに静養に行ったとき、夫の許可を得て、ハリエットは子供を連れて、彼の看病にあたっている。夫婦の間は完全に冷えきってしまい、アンナ・カレーニナとアレクセイ・キリーリッチ・ヴロンスキー伯爵のように陥ることはないものの、ジョン・スチュアートとハリエットは二人だけでスイスやイタリア、フランスに旅行したにとどまらない。友人や家族から節度を守るように責められたにもかかわらず、ジョン・スチュアートがテイラー家を訪れることもあり、夫は察して、クラブに出かけていく。どこまでも気のいい男だ。三人は、結局、この奇妙な関係を二〇年に亘り続けることになる。ハリエットには「支配者」、ジョンには「神の慎み深さ」、スチュアートには「執事」や「畜舎の番人」という意味がそれぞれの名前にある。

 習慣の専制は、いたるところで人間の進歩をたえず妨害するものとなっており、習慣的なものより何かすぐれたものをめざそうとする性向にたえず敵対している。この性向は、個々の場合に応じて、自由の精神とか、進歩ないし改善の精神と呼ばれている。改善の精神は、かならずしも自由の精神と同一ではない。なぜならそれは、気のすすまぬ人々に改善を強いることを目的とすることもあるからだ。そこで、自由の精神は、そのような試みに抵抗するかぎりにおいて、改善に反対する人々と局部的に、また一時的に同盟する場合がありうる。しかし、改善を生む唯一の確実で永続的な源泉は、自由である。 なぜなら、自由があれば、そこには、個人の数と同じだけの、改善の独立した中心となりうるものがあるからである。
 しかしながら、進歩的原理は、自由への愛、あるいは改善への愛のいずれの形をとるにもせよ、習慣の支配に敵対し、少なくともそのくびきからの解放を含むものである。そして、この両者の争いが、人類の歴史のおもな関心の的となっている。世界の大都分は、正確にいうならば、歴史をもっていない。習慣による専制的な支配が完璧(かんぺき)だからである。これが東洋全体の状態である。そこには、習慣が、すべての事がらにおける究極的なよりどころとして存在している。公正や正義は、習慣への一致を意味する。 習慣の主張には、権力に酔った暴君ででもないかぎり、だれも反抗しようなどと思わない。そしてその結果は、われわれの見るとおりである。それらの国民も、かつては独創性をもっていたにちがいない。彼らもはじめから、人口が多く、学問がさかえ、多くの生活技術に精通していたところに生まれたのではたい。彼らはこれらすべてをみずからの手でつくりあげたのであって、その当時は、世界で最大最強の国民だった。彼らの現状はどうであろうか。彼ら(東洋人)の祖先が壮麗な宮殿や豪華な寺院をもっていたときに、祖先はまだ森林を流浪していたのであったが、習慣が、自由や進歩と相並んでしか支配しなかったような他の種族の従属者や隷従者となっているのである。
(ジョン・スチュアート・ミル『自由論』)

 ハリエットとの交際を賛成していた人がほとんどいなかったため、ジョン・スチュアートは古くからの友人の多くを失ったり、交友が疎遠になったりしただけでなく、自分の家族とも険悪な関係に陥り、二人はほぼ孤立状態に置かれている。父も母も口を開けば、ハリエットの悪口を並べ立てるのに、ジョン・スチュアートはうんざりし、ジェレミーおじさんの「最大多数の最大幸福」は、間違いなく、誤謬だと強く悟る。「ハリエットとの愛のためだけに私の人生はあり、彼女こそ私にとって唯一の真実である。ハリエットと出会うために私の今までがあり、これからは彼女と共に生きるためにある。私の生はハリエットとの愛そのものだ。彼女は私の心の襞を解き放ち、その穏やかな心持ちはいかなる知的活動をも可能にしてくれる。心がため息のように震え、気持ちを落ち着かせ、呼吸を整えれば、困難なことさえできる。しかし、私はただ彼女の考えを語っているにすぎない。詩人でもない私が彼女の素晴らしさをいくら形容したところで、歯が浮いたものになるだけでなく、浅はかな比喩はすぐに陳腐化するものであり、それは私の本意ではない。世界中の詩人が語ってきた愛の詩がハリエットに捧げられていたとしても、私の愛はそれ以上の質を秘めている。たった一人の女性を愛することは、これまで人類が築きあげてきたすべての歴史の再検討をはるかに上回るのだから」。

 そうジョン・スチュアートが思っていたに違いないとしても、周囲は彼がハリエットにだまされているのだと信じて疑わない。現代と同じように、「まったく、世間知らずのお坊ちゃんがとんだ女にひっかかってしまった」と噂話に興ずる者も、言うまでもなく、少なからずいる。

Make It Easy On Yourself
Make It Easy On Yourself
Oh, breaking up is so very hard to do.

If you really love him
And there's nothing I can do
Don't try to spare my feelings
Just tell me that we're through

And make it easy on yourself
Make it easy on yourself
'Cause breaking up is so very hard to do

And if the way I hold him
Can't compare to his caress
No words of consolation
Will make me miss you less

My darling, if this is goodbye
I just know I'm gonna cry
So run to him
Before you start crying too

Oh, baby, it's so hard to do
Make It Easy On Yourself
Make It Easy On Yourself
(Hal David & Burt Bacharach “Make It Easy On Yourself”)


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