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昔ばなしの中の相撲(2018)

昔ばなしの中の相撲
Saven Satow
Apr. 06, 2018

「私は身体に震えが来るほど相撲がとりたいなどとこれまでただの一度も思わずに暮らしてきたのである」。
えのきどいちろう『相撲の困難』

 相撲協会はその時代離れした体質によってこれまで何度も世間から批判されています。ですから、少々の前時代的判断や行動に対して人々はまたかと呆れる程度になっています。しかし、さすがに今回の事件には耳を疑った人も多かったでしょう。

 『朝日新聞デジタル』は、2018年4月4日22時00分配信「土俵で心臓マッサージしていた女性に『降りて』 京都」において、次のように伝えています。

 4日午後2時すぎ、京都府舞鶴市で開かれていた大相撲の春巡業「大相撲舞鶴場所」で、土俵上であいさつをしていた多々見(たたみ)良三・同市長(67)が倒れた。市などによると、複数の女性が土俵で市長に心臓マッサージをしていたところ、少なくとも3回にわたって「女性の方は土俵から降りてください」「男性がお上がりください」などと場内アナウンスがあった。
 地元有志らでつくる実行委員会によると、女性2人が土俵に上がって心臓マッサージをした。直後に救急隊員が土俵に上がり、女性に代わって救命措置を始めた。その間に複数回、「女性は降りてください」と場内に流れたという。
 日本相撲協会の八角理事長(元横綱北勝海)は4日夜、協会の行司が「女性は土俵から降りてください」と複数回アナウンスしたことを認めた上で、「行司が動転して呼びかけたものでしたが、人命にかかわる状況には不適切な対応でした。深くお詫(わ)び申し上げます」とのコメントを出した。
 市長は救急車で病院に運ばれ、意識はあり、会話もできるという。
 大相撲では「土俵は女人禁制」の伝統が続いている。2000年の春場所では、太田房江・大阪府知事(当時)が千秋楽の表彰式で府知事賞を自ら手渡したい意向を表明したが、協会が難色を示した。社会問題となったが、知事側が断念した。

 この件をめぐって相撲協会に国内外から批判が殺到しています。生死にかかわる緊急事態でとった行動ですから、非人道的で、弁解の余地などありません。

 相撲協会は「伝統」を理由に自らの判断や行動を正当化することがあります。時代の変化への対応を求められると、それを主張して拒みます。「伝統」を守ってこそ相撲のアイデンティティがあるというわけです。

 けれども、昔ばなしの中の相撲は相撲協会の認知行動を必ずしも支持していません。もちろん、昔ばなしの多くは都市ではなく、地方が舞台ですから、扱われる相撲はアマチュアのものです。ただ、昔ばなしは民衆の集合知識の表象です。近世の庶民が相撲をどのように捉え、接しているかがそれによって明らかになります。

 相撲が登場する昔ばなしは非常に多くあります。相撲がそれだけ地方を含めて近世の民衆にとって身近だったからでしょう。子どもたちは相撲を取って遊んでいます。また、力自慢は村祭の相撲大会で湯商したと誇らしげに語ります。さらに、相撲を取るのは人間だけではありません。ネズミやクマのような動物から天狗や河童、牛鬼などの超自然的存在、果ては仏像まで土俵で取り組みます。

 今と違い、スポーツという考えがありません。庶民が身体を使い、一対一で勝敗を争うものは相撲くらいしかないのです。現代人がスポーツを神聖視しないように、昔ばなしの中の彼らも相撲をそう見ていません。現代人の草野球や草サッカーの認識で相撲を取っています。

 また、力自慢の神聖視もありません。言うまでもなく、当時の村落では腕力が重要です。生活や産業が機械化されていませんから、労働はほとんどが人力です。牛馬の利用も限られています。生産性や効率性は腕力に大きく依存するのです。山形県の『幽霊にもらった力こぶ』には、村一番の力無しのげんごえもんがかわいそうな人として扱われています。力がないために、農業の生産性・効率性が低く、いつまで経っても貧しいからです。力自慢は神に近い存在や非実用的なマッチョではなく、そうした価値観に基づいています。

 相撲が扱われる昔ばなしは二つの種類に大別できます。一つは仏教のありがたさ、もう一つは友情・愛情など絆です。ただ、後者が圧倒的に多く、前者でもそれが織りこまれているお話があります。

 仏教のありがたさのタイプのお話では、仏の力によって相撲の勝利がもたらされます。『木仏長者』において、信心深い貧しい男の木仏が長者の金の仏像と相撲を取って勝っています。また、『媛女渕の河童』や『河童のくれた妙薬』では、仏まんま、すなわち仏壇にお供えしたご飯を食べた人間が河童に相撲で勝っています。仏の力が相撲で奇跡を起こすわけです。

 相撲が昔ばなしの中で神事として登場することはありません。近代以前の日本は本地垂迹説が一般的です。それは仏が神として日本では現れる思想で、神道は仏教によって再構成されて体系づけられています。相撲を神道と関連づける発想は昔ばなしには認められません。あくまで仏が相撲にも現われるのです。

 実は、仏まんまで挙げた二つのお話は絆にも関連しています。『媛女渕の河童』は、亡き妻を思い続け、友情に熱い肥後の馬喰が主人公です。悪さをされた友人のために、力自慢の彼は河童に相撲を挑んだものの、苦戦します。しかし、仏まんまの握り飯を食べると、彼の額が光り輝き、河童は退散してしまいます。彼は亡き妻が助けてくれたと感謝するのです。

 また、『河童のくれた妙薬』は子どもと河童の相撲のお話です。村の子どもたちが相撲を取って遊んでいると、見知らぬ子が現われます。この子は小柄なのに、相撲が強いのです。ただ、リーダー格の少年だけが彼に勝ちます。その子は少年に仏まんまを食べてきたことを言い当て、明日はそうしないで相撲を取ろうと持ち掛けます。次の日、少年は謎の子に敗れます。すると、彼は少年に約束を守ってくれたと感謝します。不思議な子は、実は、河童です。少年と河童の間には人間と妖怪の垣根を超えた友情が芽生えていくのです。

 この二つに限らず、相撲が登場する昔ばなしは絆を強めたり、広げたりする者が多くを占めます。有名なところでは、『金太郎』や『ねずみのすもう』が好例です。前者では、金太郎は森の動物たちと相撲を取って彼らとの友情をはぐくんでいます。

 後者においては、貧乏なおじいさんとおばあさんが自分の家のねずみと長者のそれとの相撲を森で目撃します。負けてばかりでかわいそうだとねずみのために餅をつき、ふんどしを用意します。そのおかげで勝つと、長者ねずみが理由を尋ねます。事情を知った長者ねずみは貧乏ねずみに蔵よりあれこれ持ってくるからと自分の分の餅もお願いします。おじいさんとおばあさんも快く承知し、同じ条件になったねずみたちの相撲の好勝負をさらに楽しむのです。愛情と友情が相撲を通して確かめられたり、強くなったりしています。

 昔ばなしが相撲を通じて伝える社会的メッセージは絆の大切さです。相撲は友人や家族、共同体における絆を強めたり、広げたりするものです。現代的には社会関係資本の蓄積と言えます。昔ばなしが語り継ぐ相撲の伝統はこれです。

 けれども、今日、大人は言うに及ばず、子どもが相撲を取る光景さえ目にしません。「巨人大鵬卵焼き」の頃には、学校や街角、空き地などで相撲を取る子どもの姿は珍しくありませんでしたが、それもいつしか消えています。相撲は見る競技であっても、するものではないのです。相撲は日常生活から縁遠くなっています。

 相撲は見る人=取る人に分裂しています。両者の関係は非対称です。そのため、取る人の組織である相撲協会は、見るだけの人に対して、口出しして欲しくないと思うわけです。

 近世の民衆は見ているだけではありません。自分でも相撲を取ります。昔ばなしの中の相撲は民衆の生活に根差しています。それは信頼とお互い様の関係によって成り立っています。ですから、相撲は社会関係資本の蓄積をもたらします。他方、民衆の生活から離れた今の相撲は人々を結びつけることにさほど寄与していません。それどころか、女性を排除する相撲協会の姿勢は社会を分断に向かわせるものです。

 相撲協会は彼らの信じる「伝統」に固執しています。それが歴史的に見て妥当であるかどうかなど気にしていません。彼らは社会に根差していませんから、自らの信念にアイデンティティを見出すほかないからです。しかし、日常生活に結びついていれば、その変化に相撲も対応します。アイデンティティが社会との関係にありますので、ことさらに「伝統」を主張しないでしょう。

 「伝統」を口にする前に、民衆が相撲を見るだけでなく、取っていた時代に社会の中の相撲がどうであったのかを確認すべきでしょう。それは絆をつなぎ、確かめるためにかせないものです。その大切なものを失ったのが今の相撲だと昔ばなしは教えてくれるのです。
〈了〉
参照文献
えのきどいちろう、『妙な塩梅』、中公文庫、1997年
「土俵で心臓マッサージしていた女性に『降りて』 京都」、『朝日新聞デジタル』、2018年4月4日22時00分配信
https://www.asahi.com/articles/ASL44739ML44PLZB017.html

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