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複合化時代のイノベーション(2013)

複合化時代のイノベーション
Saven Satow
Jan. 21, 2013

「人々を動機付ける能力がなくては、経営者とは言えない」。
ピーター・ドラッカー

第1章 成長戦略と技術革新
 安倍晋三政権の経済政策は金融緩和・財政出動・成長戦略の三つによって構成されている。前の二つに関して激しい議論が交わされても、最後の項目については軽く流されることが多い。しかし、真に重要なのはその方である。これが失敗すれば、膨大な借金だけが残ってしまう。

 公的資金を使って製造業の既存工場・設備を買い取り、新規投資を促す。競争力強化や中小企業支援のために政府が出資して官民ファンドを設立する。他にもさまざまなアイデアを提案している。しかし、率直に言って、成功する見込みは小さい。この20年間、政府は公共投資や減税を繰り返し、また成長戦略の必要性を説きながら、成果を上げたとは言えない。今回の戦略は従前の政権のそれに政府支出を拡大させただけと言って差し支えない。

 現政権は日本経済再生会議を設置し、その下に産業競争力会議を設けている。成長が見込まれる分野に税や財政を集中的に投入する。これは80年代のアメリカの産業競争力委員会を模倣している。日本企業の追い上げに苦しむ米国は、この提言により、知財保護のプロパテント政策やベンチャー・ビジネス支援などを進める。それは90年代以降の米国産業の復活につながっている。ただし、アメリカは自国製品の世界標準化を目標に置いて、産業政策の戦略を立てている。米国の狙いは標準をとることだ。日本の競争力会議にはそのようなヴィジョンはおそらくない。

 キャッチアップ型の時代ならともかく、フロントランナー型に移行したのに、政府が特定産業・企業に介入したところで、成果が上がるはずもない。政府に先端技術や市場の動向をわかるわけがない。エルピーダメモリをめぐる政府の対応は時代錯誤の典型例である。フロントランナー型時代には、規制緩和や制度設計などで経済成長を促す方がよい。

 今日、日本の研究開発投資は対GDP比4%弱で世界有数であるが、その8割が民間である。日本の技術革新は圧倒的に民間中心である。90年代、民間企業は日本発の新しい科学技術製品を世界市場に投入している。しかし、他国の後発の強みにフロントランナーとしての苦しみを味わっている。過酷な為替レートの下でも中小企業は独自技術を持っているのでまだ国際競争力があるが、大企業は規格化された部品の組み立て製品が多いため、後発国に追いつかれやすい。

 日本の場合、主要製造業は主に市場から資金を調達している。証券市場の要求に応えるため、経営者は短期的な成果を求める。短期的には人件費削減が効果的であり、これにより将来を担う人材が先細る。高利潤を得ても、給与は増えず、市場リスクに備えるために内部留保金の増額に回る。また、長期的に売れる商品の開発や新しい市場の創出よりも、寿命の短い商品を目くらましのように連発する。企業経営は政府の消費刺激策に依存するようになる。

 継続された金融緩和は長期停滞の打開になっていない。不況の際に金融緩和が実施されたら、金融機関は、できる限り、リスクを避け、採算性重視の行動をとる。リスクのある新規企業の成長を支えるよりも、国債を購入し、金融緩和に伴う価格上昇による利益追求に向かう。放出されたカネはイノベーションに投資されず、金融市場で自己増殖する。

 従前の経験を振り返ると、政府の非自発的資金需要政策はイノベーション誘因につながっていない。今回、経済学者たちがなぜ成長戦略についてあまり議論しないかと言えば、イノベーションがかかわるからである。イノベーションは、実は、経済学には組みこみにくい。ジョン・メイナード・ケインズが短期分析に絞ったのも、技術革新を無視できるからだ。

 経済学はイノベーションを誘引することについて考えられる。近代社会は、自由で平等、独立した個人によって成り立っているので、インセンティブが大きな機能を持っている。イノベーションも例外ではない。

 工業化自体がインセンティブを抜きにあり得ない。農業社会には倒産も失業もないが、産業化社会にはそれがある。成功すれば今まで以上の報酬を手にできるとしても、人々には起業や工場労働のインセンティブが実際にはない。政府は、産業化をしようと思ったら、マクロ政策を行い、倒産や失業の際のリスクを軽減し、人々を誘引する必要がある。目標を立てただけで終わらせないためには、政府はインセンティブのある政策を用意しなくてはならぬ。

 こうした社会の違いは1978年2月21日放映『ドリフ大爆笑』の中でコントにされている。経理のいかりや長介に新入社員の新沼謙治が都会はカネがかかるからとして給料の前借に来る。田舎でも生活にはカネが要るだろうと渋るいかりやに対して、新沼は違うと反論する。腹が減ったら、魚や筍をとればいいから、カネがなくても田舎では暮らしていける。

 これまで成長戦略がうまく行かなかったとすれば、その政策にイノベーションのためのインセンティブが不足していたからだということになる。非自発的資金需要政策は新産業発達の兆しがあるときには有効でも、それ自体が生み出すわけではない。むしろ、技術革新しないインセンティブとして機能している。現政権の政策についてもその辺が議論されてもよさそうだが、経済学者たちの関心は薄い。成長戦略の基調は政府による介入で、インセンティブではない。

 今、世界で最も有望な産業の一つとして期待されているのが再生可能エネルギー分野である。ところが、日本政府はその育成のためのインセンティブ政策を十分に提示しない。ドイツは統一後、いずれ再生可能エネルギーの時代が来ると見通しを立て、旧東ドイツ地域の振興策にその育成を利用している。こういうのが現代的な産業政策である。日本政府は、莫大な設備投資費をつぎこんだ原発が惜しくて、新エネルギー分野のための大胆な規制緩和に消極的である。フクシマを経験しながら、真にちぐはぐだ。

第2章 線的モデルと技術革新
 現代の経済学は主に線的思考に立脚している。しかし、イノベーションは必ずしも関数的ではない。ジョン・ヒックスはイノベーションを経済学の体系に組み入れようとした一人である。彼は技術革新を生産要素の改善と捉えている。相対的に割高になった生産要素の代わりに、他を見直してコストを圧縮する。こうした生産性向上の意義は今日も有効である。しかし、それは潜在的商品の顕在化ではない。

 政策上も関数的思考による技術革新推進は失敗している。マンハッタン計画に参加したヴァネヴァー・ブッシュは、1945年7月、『科学─果てしなきフロンティア』という報告書を米国大統領に提出している。基礎科学研究を進めれば、それが応用科学に直結する線的モデルがそこで主張されている。しかし、米国は70年代に基礎研究を軽視した日本企業の技術力に押されていく。それを受けて、米国は競争力委員会で打開策を検討する。

 イノベーションに線的モデルが適用できないのは、科学と技術における人間の裁量権の違いである。科学的真理には、その際用において人間の裁量権が認められていない。万有引力の法則やボイル=シャルルの法則が嫌いだから従いたくないというわけにはいかない。一方、技術では、人間に裁量権がある。発電の際に、水力を使うのか、原子力を用いるのか、太陽光を利用するのかは選ぶことができる。

 もっと単純に考えよう。佐藤清文という文芸批評家はドーナツを口にしない。嫌いだからだ。ドーナツの安全性が科学的に証明されているから食べなければならない。そんな発想はあり得ないだろう。食べるか否かは本人が決めることだ。

 工業製品は、科学的真理も要るが、最終的に技術によって商品化されている。科学と技術が結びつく。技術の側には多くの選択肢があるので、基礎研究が応用に直結するわけではない。イノベーションは線的モデルになじまないことになる。ただ、個々の結びつきの選択肢を増やすことが革新御可能性を広げることにつながる。ヨゼフ・A・シュンペーターが技術革新を「新結合」と呼んだのもうなずける。

 中には、もちろん、関数的思考が成り立った革新の例もある。確かに、それが機能すれば、その分野は急成長する。第二次世界大戦後、おそらく最も急速に発展した産業はエレクトロニクスだろう。それを端的に言い表したのがムーアの法則である。集積回路上のトランジスタ数は18か月ごとに倍になるという経験則である。

 この指数関数則の根拠は、実は、スケール・ルールである。これはトランジスタのサイズを小型化すると、電荷がゲートを通過する走行時間、消費電力、発熱のいずれも小さくなる。なお、電子の速度は、相対論によって、光速以下である。回路設計はそれを前提にしている。割愛するが、スケールに比例する計算式があり、指数関数的結果が導き出せる。トランジスタを小型化するだけで、性能が向上する。トランジスタのダウンサイジングに励むだけで、性能が上がるのだから、革新の方向は非常に明確である。エレクトロニクスのイノベーションは線的モデルで捉えることができる。

 半導体分野は関数的思考が適用できるので、キャッチアップ型の企業には有利である。DRAMの市場シェアで先行する米国を80年代後半に日本、その後はアジア諸国が抜くのもそのためである。

 もっとも、スケール則は21世紀を迎える頃に限界が見えてくる。その理由は温度である。現在のトランジスタは電界効果トランジスタ(FET)で、出力電圧が小さくなりすぎると、温度の揺らぎの影響を受ける。通常、トランジスタは常温で使用される。トランジスタに熱が加わると、暴走の原因となる。熱エネルギーが電子の運動エネルギーに変わり、活発に運動してしまうからだ。スケール則も電圧を一定にして考えなければならない。

 ところが、この条件で高速化を実現しようとすると、計算式は省略するが、さっきとは逆に、トランジスタ一個当たりの発熱量が指数的に増える。それを冷却するための装置を用意すれば、その分、消費電力が大きくなる。実際、大型のスーパーコンピュータは巨大な空調によって冷やさなければならず、その電気料金がコスト・パフォーマンスを悪化させる一因である。エレクトロニクスの技術革新は線的モデルからの脱却が必要となる。

第3章 時代精神と技術革新
 線的モデルが適用できる場合には、政府が特定産業・企業に介入して成果を上げることができる。けれども、非線形モデルの時は、技術革新を誘引する環境整備に専念した方がよい。それには、産業は時代との相互作用があるのだから、時代の精神の認識が必要だ。とりあえず金融・財政政策を実施するのではなく、産業政策を設計し、有機的に決めるべきである。

 シュンペーターが仕入先や販路、組織形態も含めているように、イノベーションは工業製品に限らない。サービス分野にもある。個々の商品だけを見ていると気が付かないが、全般的な傾向を探ると、時代精神とも言うべきものがイノベーションには影響している。

近代に入り、貨幣経済が社会に拡張し、普遍性を持った貨幣を通じた交換・支配を人々の間に定着する。産業化が進展するにつれ、市場や組織の大規模化が指向される。それは大量生産大量消費として具現化する。この大規模化の時代を象徴するのがT型フォードであろう。万人向けという普遍主義が社会に受容される。近代以前から続くイノベーションの方向性は身体的能力の不足を補うアクチュエータであり、それが飛躍的に発達する。

 しかし、次第に大規模化の限界も顕在化してくる。基礎的平等が達成されたら、自分らしさを確認したくなる。大規模化は依然として産業の基本として続くものの、多様化が新たなトレンドとして社会に浸透する。個人の嗜好が尊重される相対主義が社会に認知される。好きな音楽を空間に縛られずに持ち運べるウォークマンや自分に合わせて時間調整できるビデオ・デッキがこうした例である。多様性に対応するため、企業も多品種少生産を取り入れる。サービス分野の例を挙げると、団体旅行やパック旅行から個人旅行への流れである。セグメンテーションがイノベーションの新たな可能性として追及される。

 けれども、多様化は孤立化をもたらしてしまう。それは互いの信頼を損ない、公共性の解体を招く。生命活動への不安も高まる。その弊害を改善するために、ネットワークが求められ、複合化の時代が到来する。公共性の構築には協力が不可欠である。大規模化や多様化も続くが、それらも部分的に結合される。既存の技術や方法の体系はネットワークの発想によって再構成される。インターネットの浸透は起こるべくして起こったと言える。

 社会的協力や社会関係資本、すなわち社会的暗黙知が見直され、現代にふさわしい協同が志向、市井における潜在能力が引き出される。大規模化・多様化の時代のようなスペックやトレンドを指向した商品開発がイノベーションではない。商品開発にフィードバックループの発想が取り入れられ、消費者参加型も普及する。社会的ネットワーク構築を促進するイノベーションが人々から支持される。代表格は社会的起業だろう。

 フィードバックループにおいて注意しなければならないのは、提供者が消費者に合わせることだけを意味しない点である。社会的協力・信頼の観点から、場合によっては、ユーザーがそれの持つ固有の事情を配慮しなくてはならない。エコツーリズムがその典型例であろう。消費者の欲望に無批判的に応えていたら、その資源は崩壊してしまう。ユーザーの拒否を恐れるのではなく、サプライヤーが共感してもらうために説得・納得のコミュニケーションに臨む必要がある。フィードバックループは双方向コミュニケーションである。お互いに新たな価値を協創して、共感できる物語を編み出していく。

 エコロジーは複合化の時代のイノベーションをよく物語っている。現代の環境問題の改善には、加害者と被害者の区別が曖昧であるから、社会的信頼・協力が不可欠である。それに基づいて、従来とは違う新たな価値を協創する必要がある。最近、価値観は政治的言説を通して復古主義への同調として用いられているが、そうした観念論と価値協創は異なる。

 複合化の時代だからこそ、イノベーションの秘訣が認識できるようになっている。イノベーションの達人にとって、その技能は暗黙知である。自分では意識せずにそれを行っている。彼らにコツを聞いても、苦労話を語ってくれても、正確には答えられない。イノベーションができるからその発想をわかっているというわけではない。一方、イノベーターを目指す初心者は、その発想を誤解し、自らが見えないので、うまくいかない。彼らも、達人同様、自分を相対化できず、結果の理由が説明できない。達人は気がつかないまま高い技能で成功し、初心者は気がつかないまま低い技能で失敗する。両者の間に断絶がある。

 イノベーション指南の際に、しばしば見逃されるのが初心者の認識である。達人の暗黙知を観察し、それを言語化すれば、新たなイノベーターを育成できると考えがちだ。しかし、そうではない。

 日本語教育を例にしよう。外国人に日本語を教える際に、ネイティブの暗黙知を明示化するだけでは不十分である。非ネイティブが学習の時に誤解しやすい点を理解しておく必要がある。そうでないと、ただやみくもに学習者に知識を押しつけることになり、効果が上がらない。「その辺の日本人が、自分は日本語が出来るから日本語が教えられるんだ、と思ったら大間違いである。日本語を教室で習った経験がなく、相手の言語も分からない。何をどのようにしたら習ってもらえるのか、まったく分からない」(金田一秀穂『「汚い」日本語講座』)。ネイティブと非ネイティブをつなぐために、両者が意識していないことを明示化しないと、日本語教育はできない。

 イノベーション指南においても、達人の発想のみならず、初心者の誤解も言語化して双方向から両者をつなぐ必要がある。両者の見方を熟知して言語化できる人材は、イノベーションの継続的創出に寄与するに違いない。ピーター・ドラッカーの作品が志望を含めて経営者にとって参考になるのは、彼がトップとボトムのいずれの認知も理解しているからだろう。ドラッカーは別に経営の達人ではない。言わば、優秀なコーチだ。同じように、「なぜできるのか」と「なぜできないのか」を言語で説明できるイノベーションのコーチが複合化の時代には求められる。結果オーライではそうそう進化できない。
〈了〉
参照文献
金田一秀穂、『「汚い」日本語講座』、新潮新書、2008年
中島秀人、『社会の中の科学』、放送大学教育振興会、2008年

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