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マラドーナ教(2014)

マラドーナ教
Saven Satow
Jun. 25, 2014

「飛んだ瞬間、目の前が真っ白になって神が僕に手を差し伸べた。あれは神の手によるゴールだ」。
ディエゴ・マラドーナ

 ディエゴ・アルマンド・マラドーナ(Diego Armando Maradona)は不世出のフットボーラーである。天使の羽のような柔らかなボール・タッチ、荒野を疾走するバッファローのようなドリブル、ボールに目がついているかのようにキーパーをすり抜けるシュートなどすべてに天才と呼ぶほかない。

 と同時に、ディエゴは信仰の対象でもある。彼を神として崇拝するマラドーナ教(Iglesia Maradoniana: Maradonian Church)が活動しているからである。

 ディエゴのサッカーの美しさを讃えるマラドーナ教の創設はミレニアムの前に遡る。1998年10月30日、ディエゴの38歳の誕生日にロサリオで誕生、2001年に最初の会合が開催されている。ロサリオの「神の手」教会を総本山とし、現在、世界60カ国以上に10万人を越える信徒がいるとされる。決して秘密結社などではなく2002年11月のBBCを始めテレビのニュースでも伝えられている。

 既存の宗教の信徒や無神論者がそのままマラドーナ教を信仰することは可能である。このマラドーナ教会はカトリックの影響を強く受けている。教義にカトリックのパロディが含まれていたり、アルゼンチンでは現役のカトリックの神父が同教団の儀式を執り行ったりもしている。

 教義の根本原理は「十戒」である。「10」は同教会では重要な数字と見なされている。ディエゴのアルゼンチン代表での背番号だからだ。ディエゴを指す神聖4文字もそこから派生している。それが「D10S」である。スペイン語で神を表わす「Dios」に「10」組みこんでいる。

 マラドーナ教の十戒は次の通りである。

一 D10Sがおっしゃった通り、汝ボールを汚してはならぬ。
二 何よりもフットボールを愛せよ。
三 フットボールに対する無償の愛を宣言せよ。
四 アルゼンチンのユニフォームを守り、讃えよ。
五 D10Sの言葉を全世界に広めよ。
六 D10Sの言葉と、彼の聖なる衣装が祭られた聖堂を祈れ。
七 一つのクラブの名においてD10Sの名を語ってはならぬ。
八 つねにマラドーナ教の教えに従え。
九 汝の息子のミドルネームにディエゴと名づけよ。
十 激昂してはならぬ。それは汝の歩みを亀の如くにする。

 モーセの十戒は禁止によって占められているが、こちらはその限りではない。この宗教では神は畏れではなく、讃えの対象であることがわかる。

 聖典は『マラドーナ自伝(Yo Soy el Diego)』(2000)である。十戒の一は同書の「私は多くの過ちを犯したが、フットボールを汚したことだけはない」に由来する。

 マラドーナ教の洗礼は、吊るされたサッカー・ボールを左手で触れる儀式によって行なわれる。これは、言うまでもなく、「マラドーナの、マラドーナによる、マラドーナのためのW杯」、すなわち1986 年のW杯の準決勝に由来する。このアルゼンチン対イングランド戦でディエゴが見せた「神の手ゴール」の再現である。

 対戦相手のイングランド代表は、当然、マラドーナ教会では敵視されている。さらに、02年のW杯においてアルゼンチンを破る決定的なPKを放ったイングランド代表デヴィッド・ベッカムは悪魔と見なされている。

 なお、1986年のあの試合の主審を務めたのがチュニジアのアリ・ベンナクール(Ali Bennaceur Ali Bin Nasser)である。彼の自宅に行くと、ディエゴからプレゼントされたサイン入りユニフォームが飾ってある。彼は言う。「私の宝物です」。

 礼拝はディエゴのポスターや像の周りに輪となり、「ディエゴ!ディエゴ!」と合唱する。礼拝の際に唱えられる文言はカトリックのそれのパロディである。

 暦はディエゴの生誕年である1960年を元年とする「ディエゴ暦」が採用されている。また、彼の誕生日である10月30日は生誕祭に指定されている。「神の手」教会では、毎年、「メリー・マラドーナ!」の挨拶で始まるミサが行われている。また、「神の手」ゴールの記念日である6月22日は復活祭である。

 偉大なフットボーラーはディエゴだけではない。けれども、信仰の対象になっているのは彼だけである。そもそも他のプレーヤーにおいて子のよ運動が起きるとは想像がつかない。なぜディエゴだけが宗教をもたらすのかという問いが湧きあがってくる。ペレは神格化されるようなプレーヤーであるが、信仰されることはない。

 ディエゴと他のプレーヤーとの違いは彼が子どものままだということだ。社会人としてどうかはさておき、ペレを始め偉大な選手たちは大人である。けれども、ディエゴは違う。彼の精神は子どものままだ。彼は真剣に泣き、真剣に怒り、真剣に喜ぶ。優勝したら満面の笑顔でトロフィーにキス、負ければ悔しさのあまり人前もはばからず大粒の涙をこぼし、代表監督を解任されればしょんぼりとする。その喜怒哀楽に裏はない。無垢で、作為がない。

 宗教哲学には、神の意思を知ろうとする主意主義という立場がある。キリスト教においてはカトリック神学の基礎をつくったアウグスティヌスがそれをとっている。他方、神が創造したのだから世界は合理的にできているとするのが主知主義である。キリスト教でこの立場をとる代表がトマス・アクィナスである。

 マラドーナ教は主意主義に基づいている。大人は作為があるので、神の意思をねじ曲げてしまう危険性がある。神の意思は裏表のない子どもを通じて現われる。ディエゴは子どもである。そのプレーがあれほどまでに美しいのは神の意思が現われているからだ。

 それを象徴する出来事があの神の手ゴールである。あれこそ神の意思の現われにほかならない。ディエゴを通じて神の意思が示された瞬間である。事実、ディエゴもそう語っている。

 子どものまま成長し、不世出のサッカー・プレーヤーになる。そのこと自体が奇蹟だ。神の意思がそこにあると思わずにいられない。「神の子」ディエゴ・マラドーナが信仰される所以である。
〈了〉
参照文献
ディエゴ・アルマンド・マラドーナ、『マラドーナ自伝』、金子達仁他訳、幻冬舎、2002年
Tim Vickery, “The ‘Hand of God’ Church”, BBC, Nov, 04. 2002, 09:49 GMT
http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/2396503.stm
Wikipedia

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