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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(141)「青野原の戦い」一番陣から四番陣のおさらいとつっこみ、そして土岐頼遠と桃井直常がひかえる五番陣を古典『太平記』で確認してみる

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2024年1月27日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


個性豊かな顕家軍において、頼もしさは互角なれど存在感が対照的な伊達行朝と南部師行
(ちなみに、結城宗弘は二人と同じ基準では比較できない……!?)


 「なんか懐かしい人思い出すね

 第109話で亡くなった諏訪時継がここで再登場し、さらには、影が薄いというのが「神力」などではなく周囲からの「認定」制であったとは……衝撃を受けました(笑)。
 子ども相手に必死になる「伊達様」が、自力でそれを「振り払った」ことに雫と弧次郎が感心(子どもって残酷…)していますが、そうすることなく影が薄いことを武器としてしまった時継が、逆にスゴイとも言えなくもないかもです。そして、仲間が増えずに「チッ」となっている時継の、どこかズレてるブラックさが諏訪の血っぽいです。

 第141話は、一番陣で勝利した時行が五番陣の北畠顕家に合流すべく、味方の勝ちを少しばかり余裕を持った気持ちでユーモラスに描いていますが、最後の見開きページで想定以外展開となります。
 作品同様に、それぞれの陣の様子を古典『太平記』で確認しながら、こちらも進めてみたいと思います。

 一番陣と二番陣については、本シリーズの以下の回をご覧ください。

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 ではまず、三番陣を『太平記』で見てみたいと思います。

 三番に、今川五郎入道、三浦新介、阿字賀に打ち出でて、横合ひに懸かる処を、南部、下山、結城入道道忠、一万余騎にて懸け合はせ、火出づる程に戦うたり。三浦、今川、元来もとより勢劣なれば、ここのいくさにも打ち負けて、川より東へ引き退く。
 ※三浦新介(みうらのしんすけ)。三浦時継の子、高継。
 ※阿字賀(あじか)…羽鳥市足近(あじか)町。
 ※結城入道道忠…結城宗広のこと(「入道」なので、出家して仏道を修める身であるというギャップが怖すぎる……)。

 三番陣も、顕家軍である南部、結城両者の圧勝です。
 南部の武器はどうやら船の櫂のようですが、それをバットのように振り回して敵をなぎ倒す、いわばメジャーリーガー戦法といったところでしょうか。また、弧次郎は「通訳てめえ仕事しろ!!」とお怒りモード(亜也子も)ですが、顕家が奥州武士の〝ツボ〟や自己表現の仕方が京や鎌倉とは違うことをかつて時行に語っていた通り、南部さんは本当は時行が好きで、美女通訳さんの翻訳もあながちまちがってないのかもしれないと私は想像しています。
 ※櫂(かい)…棒の半ばから上を丸く、下を平たく削ったもので、水を掻いて船を進める具。
 そして、異次元の恐怖をかもし出す結城宗弘ですが、弧次郎の「七支刀にまさか流派が存在するとは」に、私も激しく同意でした。拷問具であることも証明されましたし……。

 結城父子に関する「衝撃の事実に気付いた」雫の洞察力には恐れ入るばかりですが、それで普段は見えてるんかい!?と突っ込んでしまいました。残虐さと滑稽さのきわどいバランスが、結城父子の人気の秘密ですね(人気あるよね!?)。
 三番陣の最後で、松井先生は三浦八郎との再会、今川の庇護を受けた「名越殿の弟君」のエピソードを交えているのに心温まります。歴史を紐解けば、戦乱の世は長く、多くの人間は不本意な環境に縛られ苦しみ続けたのだという事実を突きつけられるたび、重く暗い気持ちになります。それでも人々は、命と思いをつないで次の世に託し続けてきたのもまた事実なのだと、最近つくづく考えるのです。

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 四番陣については、弧次郎が参戦していたこともあり、本シリーズでもすでに何度か取り上げています(先との重複失礼いたします)。

 宇都宮氏についてと、楠木正成VS宇都宮公綱については、こちらで紹介しています。

 公綱個人のことはこれまで触れていなかったので、『国史大辞典』から引用してみます。

宇都宮公綱(うつのみやきんつな)
一三〇二 - 五六
 南北朝時代の武将。没年より推算すれば乾元元年(一三〇二)誕生。初名高綱、父貞綱のあとを嗣ぎ宇都宮検校となる。元弘の乱の時、北条高時の命をうけて西上し摂津四天王寺で楠木正成と戦い、のち奈良般若寺に滞陣のとき後醍醐天皇の綸旨をうけて天皇方に投じて上京した。建武政権の成立後兵部少輔に任ぜられ、雑訴決断所一番の奉行をつとめた。建武二年(一三三五)足利尊氏が鎌倉で叛いた時、公綱は新田義貞に従って東下し箱根竹ノ下で足利軍と戦って大敗を喫し、建武三年(延元元、一三三六)尊氏に降伏した。しかしその年尊氏が敗れ九州に走ると、再び朝廷方に帰順し、同年夏尊氏が再び京都に攻め上ってきた時、各地に転戦し、後醍醐天皇の山門行幸・京都還幸に供奉するなど天皇の側近に随侍した。ついで室町幕府が成立し天皇が吉野に逃れた時も吉野に参り、その功により正四位下左少将に叙任された。その後天皇方の勢力は次第にふるわなくなったが、公綱は北畠顕家に属し各地を転戦し、文和元年(正平七、一三五二)には後村上天皇から下野の小山氏とともに東国静謐の計略を運すべしとの勅命をこうむりそれに従ったとされているが、これは『太平記』の記事によるものでその晩年の行動に関しては正確な史料を欠いている。公綱は宇都宮家歴代の伝統をうけて和歌に秀で、その作歌は十三代集の最後にあたる『新続古今和歌集』に撰ばれている。延文元年(一三五六)十月二十日没。法名理蓮、正眼庵という(『諸家系図纂』)。また享年五十五歳と伝える(『下野風土記』)
〔国史大辞典〕

 公綱さん、「享年五十五歳」っていうことは、〝若年性〟というやつですか!?
 徳寿丸(義興)と堀口貞満の「おじーちゃん さっき食べたでしょ!!」「朝っぱらからずっとこれだ このご老人は!!」に大爆笑でした(「?」でパワー系の新田軍と組んだので、こんなリアクションだけで済んだのかもしれません)。
 ちなみに、こうした症状は現代人でも中世人でも存在したわけで、現に吉田兼好の『徒然草』には、かつての貴人が歳をとって、道端の田んぼで木像を洗っていたのを家来たちが見つけ出して連れ去ったのを目撃した、といった話があります。何かに固執してしまうのはこの貴人と共通していますが、『逃げ上手の若君』の公綱の風貌には鬼気迫るものがあるので、「雰囲気勝ち」もあったと思わせてしまうところが松井先生のすごいところです。

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 「坊ーーっ!! すぐ本体に戻れ!

 顕家が負けるわけがないと思っているので、五番陣を偵察して戻ってきた玄蕃の慌てように時行たちは一転、予想だにしなかった事実に驚かされます。『太平記』では、土岐頼遠(と桃井直常)が他の陣の足利方の勢力とは違ったと見ています。今回は、その部分を示して終わりにして、第142話を心待ちにしたいと思います。

 五番に、桃井播磨守直常もものいはりまのかみただつね土岐弾正少弼頼遠ときだんじょうのしょうひつよりとお、鋭卒をすぐりて千余騎、渺々たる青野原に打ち出でて、敵を西北に受けてひかへたり。ここには、国司鎮守府将軍顕家卿ちんじゅふのしょうぐんあきいえきょう春日少将顕信かすがのしょうしょうあきのぶ、出羽、奥州の勢六万余騎を率して相向かふ。敵御方みかたを見合はするに、千騎に一騎を合はすれども、なほ当たるに足らずと見えける処に、土岐と桃井と、少しも機を呑まれず、前に畏るべき敵なく、後ろに退くべき心ありとも見えざりけり。
 ※渺々(びょうびょう)たる…はるかに開けた。
 ※春日少将顕信…北畠顕信。顕家の弟。
 ※千騎に一騎を合はすれども、なほ当たるに足らず…奥州勢千騎に足利勢一騎で向かっても、まだ足利方が足りない。
 ※機を呑まれず…ひるむことなく。

〔『太平記』(岩波文庫)、日本古典文学全集『太平記』(小学館)、『徒然草』(角川文庫)を参照しています。〕


 「『逃げ若』を撫でる会」のご案内を投稿しました。気軽にご参加ください(詳細は以下をご覧ください)。

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