今見てることが終わるということ


エメラルダ(松岡佐和)

※これは田口ランディさんのクリエイティブライティングの講座の課題として提出したものです



大群衆が集まったホールの空間が歪み、きらびやかな天上音楽の音程が不気味に下がり、世界が彩度を失って遠ざかる。

見ている世界が途端に過去の記憶の呼び戻しのようにあやふやで、現実味を失い、それが私を切なくさせる。

これは今目の前で起こっていることなのに。


私は南インドでサリー姿のインド人の婦人たちと強く密着し、滑らかな黒い石でできた床の上に膝を抱えて座っていた。
インド人の体は常に熱い。

私の体も熱い。

それらを冷ます効果が常にあるはずの黒い石もすでに体温が伝わり生温かくなっている。

何万人いるのだろう、
風通しの良い屋根付きの大ホールの天井には無数のシャンデリアがぶら下がり、それぞれに温かな明かりが灯っている。
まだ明るいうちに始まった、聖者を一眼見るためのこの集会は、アフリカ諸国からの約500名の帰依者のグループによる演劇を経て、今は子供たちを中心とした美しい大合唱になっていた。

南インドの片田舎であるプッタパルティは元は喉を痛めつける土埃と蟻塚とコブラしかないような完全に寂れた寒村だった。

それがある日、自らを神の化身と宣言した14歳の少年の出現によって世界中から絶え間なく人が訪れる巡礼地となり、世界有数のパワースポット、神の街へと変貌を遂げた。

群衆は数十年もの間膨らみ続け、神の化身の少年は老人となり、その熱気は高まり続けていた。

元少年であった、今や80代の神の化身の老人の前で信仰の極限のエネルギーに振り切れた歌や踊り、演劇、スピーチなどのパフォーマンスが日々繰り広げられる。それを一緒に眺める群衆。

私もそのような群衆のうちの一人だった。

私は幼い息子を連れてもう5年もこの地にいた。

一般的な世界の暮らしの中では1年に1度、いや、数年に一度だけ出現するような非日常の祭りがここでは毎日、時には日に2つも3つも重なって行われていた。

その中心には神の化身。

そこに集まる、それぞれの人の心と神の化身の間には独自の繋がりがあり、繋がりの濃さにはグラデーションがあった。

しかし群衆全体としては肉体を持って現れた神の化身を中心に、人々は一つの大きな幸福な意識にまとまって、恍惚を共有していた。

ここではこのエクスタシーが共通言語であり与えられる利益であった。
人々は自分一人では見つけられないこの恍惚状態を自分の中に見出すために何度も繰り返しここに集うのだ。

それはこの神の化身が肉体を持っているから、いつかは終わりのあるものとしてなおのこと、熱狂が止まらなかった。

5年ここにいて、私は時々自分が何を見ているのかわからなくなる。

ここで見て、体感で認識したものを言語が表現することが追いつかないのだ。

何万人もの群衆が極度の幸福のうちに気持ちを一つにすることなど、今の他の世界のどこに見ることができるだろう。

自分は凄まじいものを目にしているという自覚に私はしばしばおののいた。

そして私もその幸福感に体内が満たされてパンパンになり、漏れてその幸福は体の外まで吹き出している。

集まった人々から溢れてもれた幸福の金色のオーラが集まって一つになり、この街全体を大きく包んでいる。


そして私はふと哀しくなる。

こんな特殊な状況は今だけのこと。

 
世界の音が外れ不気味にうっすら暗転する。
不穏な空気が漂う。

今はまだ私はこの幸福な夢の中にいるのに、
目の前では子供達の天使のようなパフォーマンスが繰り広げられているのに、

色とりどりの大ホールの空間はこんなにも、最小単位に純化したキラキラの光の粒子と愛で満ちているのに、
ここには愛を表現するものしかないのに、

私はいつの間にかこれらがすでに終了した世界へと飛ばされて、そこからスクリーン越しにこの幸福な光景を過去のものとして懐かしんで、見ている。

インド人の熱い体温ももう感じない。
硬い床の感触ももう感じない。

終わってしまうことが悲しい、
もう終わってしまったことがただただ哀しい。

ほんとはまだ終わってないのに!

そしてこの光景を見ているのは今や私一人なのだ。


群衆は何処かに行ってしまった。

一人で、この愛しい想いを噛みしめる。
胸の収縮する痛みとともに。

失われたものとして。

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