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私の戦争の終結と子供時代の終焉

久しぶりの投稿になります。

昨年8月に父に深刻な病気が発覚し、その対応の中でしばらく心のバランスを崩していました。気がつけばあれから半年。

とても幸いなことに、父は治療が効いて大復活を遂げました。

しかしそれだけではなく、私の長年の傷も癒え、家族との新しい関係性も生まれ、大きく自分の人生観も変わりました。

半年前の前回、旦那の「戦争が終わった」ということを記事にしたのですが、今回こそまさに私自身の、私の実家家族の「戦争が終わった」のだと実感しています。

私を一番苦しめたもの

この半年間私を一番苦しめたのは、もちろん父を亡くすことの恐怖も大きくありましたが、「気持ちを外に出せない」ということでした。

改めて、自分は外に言葉として吐き出していかないと生きていけないタイプの人間なのだと思い知ることになりました。

父は、病気のことを人に知られたくないと強く希望していました。

でも私は、自分の「患者家族としての経験」が、これから経験する誰かの役に立ったり、「自分だけじゃない」という誰かの慰めになるはずと思い、これまでのように経緯を含めて書こうとしていました。

というのも、自分自身が渦中にあった時に、ネットで他の方の体験談に大いに励まされていたからです。


これまで何度か書いてきているように、私の行動指針は、「自分が苦しかった時に欲しかった言葉を紡ぐ」「以前の自分と同じ境遇にいる人を励ましたい」ということにあります。

それが自身の癒しにも繋がり、この世における私の存在意義や原動力となっているのです。


私は父のことをこれまであまり書いてきませんでしたが、頑固でなんだか頓珍漢で、私と思考傾向が似ていて、やはり血は争えないと苦笑してしまう微笑ましい存在。大好きです。

そんな父が自分の病のことが知られるのを嫌がっている。

でも私はといえば、この気持ちを言葉として吐き出さないと、行き場を失った思いが脳内に溜まって今にもパンクしそうな状態でした。


結論の出ない葛藤

父の病気が発覚してから、1ヶ月ほどのうちで色々なことがありました。

手遅れになりそうな状態まで父を放置した病院と喧嘩をし、転院措置をとったこと。

遠くの病院まで、慣れない運転で必死で父を乗せていったこと。

方針が合わない家族に激しく糾弾されたこと。

心細くなった母が私を頼り依存するようになったこと。

父の死後の諸々の手続きを、父と正面から向き合って話し合わなくてはいけなかったこと。

また、そこにコロナ禍ならではの事情も乗っかってきていました。


でも、この経験はきっと誰かの役に立てるはず。全てが糧になる。

自己満足といえばその通りですが、そう思えばこそ、この状況を前向きに乗り切れていました。

けれども、父はやはり人に知られることを望んでいない。どうしたらいいのか。

ぐるぐると脳内を巡る結論の出ない葛藤が、私を蝕みはじめていました。


感情の自家中毒

異変が起こったのは、このような状況が一旦落ち着いた9月末のことでした。

外を歩いていたら、突然膝から力が抜け、立ち上がれなくなったのです。

体調が悪いわけではない。でもなんとか立ち上がって一歩前に踏み出そうとすると膝から力が抜けてガクッと崩れ落ちてしまう。その時は休み休みなんとか這うようにして帰宅したのですが、こんなことは初めてで「ああ、私はとうとう壊れたんだな」と感じました。

思ばその頃には、朝起きたときや、ふとした瞬間に涙が突然滝のように流れ落ちることが普通になっていました。父の死を考えての涙でもありましたが、正直なところ、重荷に耐えきれず「もう色々めんどくさいから死んじゃおうかな」という希死念慮まで戻ってきてしまっていました。

でもどこかで、「私が自殺したら父が自責の念に駆られるだろうから、それは可哀想だな」と冷静に俯瞰している自分もいて、これはもう自分の手に負えないと、以前からADHDの診断などでお世話になっていた行きつけの心療内科に罹ることにしました。

とうとうと状況を語ると、「いやあ澤さん、よく頑張ったよ。もう十分だからまずはしばらく休みなさい」と先生。

その瞬間、目の前の視界がさーっと広がっていくような感覚がありました。今振り返ると、行き場を失った感情で、私はメンタルに自家中毒を起こしていたのだと思います。

戦争の集結と家族の再構築

それからは、SNSや周囲の方に「一旦すべての社会活動を停止します」と宣言をし、自分の気持ちに向き合いながらひたすら休むことにしました。

実家家族にも「メンタルが崩壊したから、少し休むよ」と伝えました。

ただそれを伝えるまでは、両親を見捨てたということになるのでは、一番辛いのは当事者である父なのに、介護状態でもなく付き添っているだけの私が音を上げるのは甘えなんじゃないか、そう何度も葛藤しました。

でも何度考えても、これ以上この状態を続けるのはもう無理。そう心を決めて伝えたのですが、結果として状況は好転することとなりました。

弱気になっていた父も母も、「自分たちがしっかりしなくては」というように明らかに変わり、その後父は、とても前向きで明るい担当医さんから元気を注入されたこともあり、治療が奇跡的に効いて、みるみる元気を取り戻してゆきました。

思い返せば、私がなんとかしなきゃと一人で背負いこんでしまったことで、過保護な親のように私が家族をスポイルしてしまっていたのかもしれません。

適切な距離感を侵害してきた昔の母のように、私も「自己犠牲という過保護」で実家家族のそれぞれの領域を侵害してしまっていたのでした。

でも同時に、最近はとても良い感じに変化しつつはあったものの、我が家にはそもそも「適切な家族の距離感」というものがこれまで存在していなかったのだということにも気がつくことができました。

そうしてお互いの適正距離を模索しあう「家族の再構築」が始まった、そんな気がしてます。

私を糾弾した家族ともなんとなく元通りになり、最近は人生で初めて「家族の結束」というものを知ることになりました(笑)

私の戦争はまだ終わっていなかったんだ。でもやっと本当に終わったんだ、そう感じています。

病がくれたもの

思い返せば、現役時代は海外への出張や単身赴任でほとんどいなかった父と、これまでこんなに濃密な時間を過ごしたことはありませんでした。

病院への送迎の車の中、診察待ちの時間、家で書類を一緒に整理しながら、二人であれこれ話をして、これまでに聞いたこともない父のことをたくさん知りました。

父にとってはこの病気は青天の霹靂で、もちろん起こって欲しくなかったものに違いません。

お寺の子供だった父はいつもどこか達観したところがあって、最初のうちは「人間はいつか死ぬんだし仕方ない」、そう言っていました。

でも、いざ治療を選ぶ段になると、「何もせずに死を待つのはいやです。例えリスクがあっても、できることをやります」、そうはっきりお医者さんに告げました。

もう齢80を超える父の生への執着は全く予想していないものでしたが、往生際で見せたその堂々たる人間らしさには不思議に感動的なものがありました。

私もそこで「父と一緒にとことん並走しよう」と覚悟が固まりました。

そうして実際に生き返った今、ゴルフ(緊急事態宣言中はもちろん停止していますが)に仕事にと、第何回目かの人生を全力で謳歌しています。

そんな父の知られざる姿に触れることができたこと、辛くも濃密な時間を過ごすことができたことは、この病がくれた思いがけないご褒美です。

私が私として生きるための選択

さて冷酷な表現ですが、父が亡くなってしまったのなら、同じ境遇の方に参考にしていただけそうな、私が助けられた文献やサービス、動画などがあったため、病名も明かした上でここに書き残そうと考えていました。でもとても有難いことに父は復活しました。

病気を知られたくない父の希望通りにするか、書きたい自分の気持ちをとるか。私はその後もずっと悩み続けていました。

ただ、父の治療が効いたといっても、その効果がいつまで続くのかは誰にもわかりません。数ヶ月かもしれないし、半年か、数年、もしかしたら10年以上かもしれない。

でもそれは私とて同じです。私の方が先に死ぬ可能性もゼロではありません。私の寿命は神のみぞ知るです。

万が一私がこのまま死ぬことになったら後悔しないか?そう自らに問い続けました。

だから結局、その間をとって「病名は出さないけれど、この半年に起こったことを書く」ということを選択して、このような形で残すことにしました。

私がこのような発信をしていること自体、父が知っているかはわかりません。知って縁を切られるかもしれません。でも、私にはこのように言葉にして心のガス抜きをするのは絶対的に必要なことなのです。

私が私として生きるためにも。


ただ、私は患者ではありませんし、父を亡くしたわけではありません。介護もしていません。とても中途半端な状態ではありますので、「それごときで右往左往するなんて」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

でも、色々な重荷に実際に潰れました。同じような状況で、一人「自分には苦しむ資格がない」と思われている方がいたら、「よく頑張ったと自分を褒めてあげてください」とお伝えしたい、そう思います。


子供時代の終焉

親というものは、子供より先か後かはわかりませんが、いつか必ず亡くなります。

その事実を頭で理解できてはいても、実感できていなかったのだと、父の病を通してつくづく思い知りました。

両親はいつの間にか完全に「老人」になっていて、「恐ろしかった存在」であることは消え失せて、「庇護を必要とする対象」になっていました。

私に子供がいないこともあり、これまでなんとなくまだ自分は「世の中において子供」であるかのような気分でいたのかもしれません。

でも、当たり前ですがもう私は子供ではなく、自身も老いの途中にあるということも今回はっきりと自覚できました。


もしかしたら私の「子供時代」は今ようやく終わったのかもしれません。

アダルトチルドレンであることも。

私は今、真に解放された、そう言えるのかもしれません。

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忘れられない瞬間があります。

8月のある日の、父と遠い病院へ検査へ行った帰り道でのこと。

慣れない運転で必死に首都高を走っていた私は、長いトンネルから地上に出た瞬間、びっくりするような大きな虹が目の前に架かっているのを発見して、思わず「パパ、虹!!」と叫びました。

でも返事は無く、後部座席を振り返ると、度重なる検査に疲れ切って力なく眠りこけて白髪の頭を揺らしている父の姿がありました。

もう父が車を手放してから何年も経つけれども、これまでずっと父は「運転してくれる人」、私は「乗せてもらう人」でした。ブラジルに昔家族で駐在していたときも、とんでもなく物騒な街中を、故障ばかりするオンボロ車で壮年の父は私たちを頼もしく運んでくれました。

でも今はすっかり弱々しく小さくなって、私の危なっかしい運転に身を預けてぐっすりと眠っている。

もう私が守ってあげなきゃいけない存在なんだ。

そう気がついたとき、私にとって大事な存在が旅立つ時によく現れる美しい虹の不吉な予感も合わさって、「もう次の夏に父はいないかもしれない」という思いに襲われました。

父を起こさないように声を押し殺して大泣きしながら、滲む視界の中必死に家まで運転して帰ったこの瞬間のことは、今もはっきりと覚えています。


でも有難いことに、このままの状態が続いてくれれば、今年の夏もその次の季節も、父と迎えられそうです。

自分の余命があと少しと突然告げられたら

ただ、自分も含めて先のことは誰にもわかりません。

父の心情に少しでも近づこうと、自分の余命があと少しと突然言われたらと、そんなことをこの半年間ずっと考え続けてきました。

旅をする?買いたいものを全部買う?有名になるために何か仕掛ける?

否。私が出した結論は、「大好きな人たちと幸せな時間を過ごすこと」でした。

陳腐ですが、一言で表すと「」。

名声も財産も、死後の世界には持っていけません。

それよりも、温かな気持ちで最期の瞬間を過ごしたい、今は心からそう思います。

長い間、強い人間不信を抱えて、一人で生きていくのが一番いいと思い続けてきた自分の変化に、私自身がとても驚いています。



陽光が日増しに力強くなって、身を切るような寒風の中に春の匂いを感じるようになってきたこの2月、

長らく冬眠していた私も、少しだけ生まれ変わってようやく再始動できそうです。


今年の夏も、大好きな人たちと美しい虹が見られますように。



これまで何度かご紹介してきましたが、この本には今回も大いに助けられました。遅読な私はようやく読了したのですが、最後の方で彼女が苦しみながら生に向かって格闘する姿に、完全に自分を重ねていました。


今見返してみたら、父のことが発覚するまさに1ヶ月前に、私は「旦那の家と私の家で戦争が終結した」と書いていました。思い返せば、それはほんの序章に過ぎなかったのだと感じます。


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