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源義経エピソード付与の履歴~平安末期の義士がルール無用のイケメンで不細工になるまで~

源義経といえば、日本史上でもかなりの有名人だと思われます。
そんな彼は特徴的なエピソードに事欠きませんが、どの辺が後世の尾ひれで、どの辺が(一応)史実なのか…というのはなかなかに入り乱れております。
今回は、それを簡単にまとめてみました。

・義経は、いつ イケメン/不細工 になったのか?
・あのエピソードやこんな伝説はいつごろ生まれたのか?
・現代では卑怯者とか言われてることもあるけど、そんな人がなぜこんなに人気者になったの?

などなど。
「あのエピソードは、この時に生まれたのか~」と雑学程度に読んでいただければ幸甚です。
では、義経が生きた平安時代末期→鎌倉時代→室町時代→江戸時代→近代→現代、と大まかにまとめて見ていきます!

明確な誤り等ございましたら、申し訳ないですがご一報ください。。。

<平安時代末期 義経が現役で活躍! そして容貌への言及>


実際に義経が生き、活躍した時代です。
ここでは、当時の朝廷の大実力者である九条兼実の日記『玉葉』が主です。


まずは義経の溌登場シーン。
○平家や木曽義仲の専横を経た京に、「頼朝の代官的な人が軍勢連れて来た(by兼実)」。
…なのですが、この時は義経の名前さえ出ておりません…。
この義経が、かつて栄華を極めた平家を、僅か数年で滅ぼしてしまうとは兼実もこの時思いもしなかったのでしょう。

しかしその義経も平家を倒した後は自分が頼朝に追われる身となり、京を去ります。
この時、兼実は玉葉でこう書いています。
○兄弟の理を守らなかったのはよくないが、忠義者で偉い。
○平家みたいに京を荒らさず、礼儀正しく整然とした去り際はまさに「義士」と呼べる。武勇と仁義においては後代に佳名を残すべき人だ。

かなり誉めてますね。
「義経は当時嫌われ者だった」と唱える人は沢山いますが、少なくとも記録上はこのように京での人気者ぶりが伺えます。


<鎌倉時代 義経の死後、人間味と軍略の才が描かれる!>


この時代に、鎌倉幕府による公式の歴史書『吾妻鏡』(ただし多くの曲筆・誤謬あり)が製作されます。
この吾妻鏡で、義経の人間味あるエピソードが多数収録!
また軍記物語として有名な『平家物語』も、この時代の中頃に原型が成立したと見られます。

○義経の愛妾である静御前との切ないロマンス。本当に切ない。
(京で出会い、お訪ねものになった後の義経と身重の静は雪の吉野山で別れ、その後会うことはありませんでした)
(身重の静が頼朝の前で義経を慕う歌を舞ったり、涙なしには読めない静の出産シーンもここから)

○義経の歴史上の初登場(?)シーン
(記録に義経が現れるのは先述の玉葉が先なのですが、シーンとしてはそれよりも遡り、どこからかひょっこり現れて富士川の戦いという戦の後に頼朝と再会して合流した…という話が吾妻鏡に掲載されています)
なお幼少期に鞍馬寺に預けられてから富士川での頼朝再会まで、義経がどこで何をしていたかは全くの不明です(小説・漫画などでは、よく奥州にいたことにされますね)。

そして平家物語。
これは軍記物語、つまり小説(ただ史実も多く含むので、史料として扱われもする)で、後半はまさに義経が主人公となって平家をやっつけまくります。
主だった義経の平家との戦は、一ノ谷の合戦、屋島の戦い、壇ノ浦の合戦、といったところです。
ここで色んなエピソードが生まれました。

○一ノ谷で行なったという鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし
(崖みたいな坂を馬で下って奇襲、というあれです。ただ地理的に不自然なことや、前述の玉葉に収録されている義経からの報告で「西の口から攻めました(逆落としとか一言もなし)」というのがあり。このため、逆落としは平家物語の創作か、あったとしても地元の武士多田行綱によるものと思われます。)
(じゃあこの時の義経はあまり活躍していないのかというと、かなり画期的な高機動戦術を成功させたりしています)

○屋島の戦いでの、梶原景時との逆櫓論争
(「舟にバックギアを着けて進退可能にしよう」という梶原と「そんなもんいらん!」という義経の論争。ただ梶原景時はこの時義経と帯同していませんので、これは平家物語の創作)

○壇ノ浦の戦いにおける八艘飛び
(義経が舟から舟へ飛び移って敵将から逃げたというもの。創作)

○義経不細工論 初登場
(壇ノ浦で義経を探す平家武将が「義経は小男で反っ歯だからすぐ分かるぞ」と言います。ただこれ自体平家物語の創作の上、半分悪口なので信憑性はないかと)

義経の容貌について言及されているのはこれが初めてですが、「記録」と言えるものではないのでした。
なお別の軍記物の『平治物語』では、義経の母親の常盤御前は「千人から(義経の父の義朝が)選びし美女」とあるので、これがもし真実に近いのであれば義経も男前…かも?


<室町時代 イケメン化、そして創作エピソードさらに付与!>


何と言っても現代に伝わる義経のイメージを決定づけたのは室町時代に登場した物語『義経記』です。
平家物語の異本はこれまでにも出ていましたが、趣を新たにして数々の創作エピソードを盛り込んだ「ザ・義経伝説」みたいな作品です。
ここで新たに起こるのが、

○イケメン化
ですね。「美男子・義経」路線がここで明確になります。

○鞍馬天狗から剣術、鬼一法眼から軍略を習うというか盗み見る
(義経がどうやって天才的な軍略を身につけたかの伏線のような話。天狗いないので創作)

○少年-青年期を奥州で過ごした設定
(義経晩年の奥州入りの伏線のごとく、金売り吉次なる人物が義経を奥州まで連れて行った…という話。創作)

○武蔵坊弁慶の躍進
これも義経記の影響が大きいです(『弁慶物語』もありますが)。
これまでの吾妻鏡や平家物語では、弁慶は特に脚光の当る家来ではありませんでした。
どんな扱いだったかというと、「義経の家来の名前が羅列しているところに、他の人たちと並んで1・2箇所出てくる」というものです。
この家来Aみたいな扱いだった弁慶が、「義経の一の家来で忠臣、怪力無双の破戒僧」になるのはこの頃です。
少年時代の義経=牛若丸と、平家の刀を狩っていた弁慶が京で出会うという挿話もここから。
ただし義経の頃にはまだ五条大橋がないので、挿話内で二人が出会ったのは京の別の場所(清水観音の境内)です。

またこの頃、平家物語の異本として有名な『源平盛衰記』も登場します。
平家物語に多くの肉付けがされた作品ですが、それだけに史実からは離れていきます。
なお、平家が滅びたということで有名な壇ノ浦の戦いですが、実は玉葉や吾妻鏡を含め、史料ではどんな戦だったのかほとんど内容が残っていません(何時頃始まって何時頃終わった、くらいしか不明。しかも史料によって差がある)。
壇ノ浦の戦いの模様は、平家物語と源平盛衰記に詳しく描かれていますが、そのほとんどが創作と見られます。


<江戸時代 加速する伝説! 名エピソードから珍説まで!>


江戸時代になると、人気者であった義経はさらに創作を展開されていきます。

○勧進帳、義経千本桜
能・浄瑠璃・歌舞伎の世界ではいくつもの快作が生まれました。
安宅の関で、弁慶がわざと主人・義経を打ちすえる勧進帳も江戸時代生まれ。
ただしこのエピソードは創作で、ここでいう安宅の関がどこだったのか、今も確認されていません(…などというと安宅の関址に申し訳ないけれど…)。

○義経生存論、そしてジンギスカン説
(生存論は、東北地方以北に点々と残る義経の伝説をつなぎ合わせたもの。
ジンギスカン説は一応真面目に調べられたようで、林羅山、新井白石、水戸光圀といったビッグネームが調査した「義経生存して北上論」の延長上にある話…だけれど、今では説と呼べるのか…)
シーボルトが断言したりそれを元に小説になったりして、一斉に広まった様子。


<明治、大正 センセーショナルなあの説が生まれた!>

○明治時代、童謡「牛若丸」により、義経と弁慶との出会った場所が五条大橋というイメージが流布
(絵本とかも数多く描かれたので、清水観音よりこっちが有名になってしまった感)

○大正時代、かの有名な「壇ノ浦の戦い、潮流が勝敗を分けた説」が誕生
(ある高名な研究者により、「壇ノ浦の戦いは、時間の流れによる潮流の変化によって勝敗が分かれた」という説が唱えられる。
これが東京帝国大学助教授という看板もあり、化学的な裏付けによるものとして広く流布した。
ただし現在は、「潮流は水上戦の勝敗に大きく影響はしない」という海外の研究や、「そもそもそんなに大した潮流ではない」という近代の科学的な研究結果もあり、この説は説得力を弱めている。だが潮流説はドラマチックでカッコイイ)


<昭和 流転する義経のイメージ。人気者から、虚構と風説で卑怯者に!>


ここまで人者でやってきたことのカウンターのごとく、多くの人が「本当は義経は○○らしいぞ」と虚構風説を広め、義経のイメージを悪化させました。
「義経は本当は、当時卑怯者と言われた」→「え? そんな記録はないぞ?? どこかに書いてあったっけ?(ペラペラ)」
「義経は本当は、非戦闘員の水夫(船頭)を射殺した」→「ええ? そんな記録もどこにもないぞ??(ペラペラ)」

「義経は本当は、不細工だった」→「だからどこに書いてあるんだよ!!(涙)」
……と、手間をかけて調べて誤りを修正するよりも、悪評が広がるスピードの方が圧倒的に早いのですね。

○「義経は壇ノ浦で非戦闘員の水夫を射殺して、自軍を優位にした」という虚構が発生
(印象的な創作なうえ、高名な学者や作家もこぞって唱えたので史実だと信じる人が続出。
しかし今日に至るまで、その根拠を説明できた人が一人もいない。
虚構ながら有名になり過ぎたため「通説」とか言われたりもする。
どうも発生源をたどるととある大物研究者なので、潮流説と同じで権威の力が働いて右に倣えさせた感がある。史実と信じて義経を誹謗する人もSNSやブログにいっぱいいる)

○中世日本に対する一騎打ちへの幻想から、「義経は当時の戦においてルール違反をしていたから強かった」という主張が流行
これもググると沢山出て来ますが、概ね「当時は名乗り合って一騎打ちしてからの戦いが基本だったのに、義経は奇襲ばかりしていたので当時は卑怯とされた」というもの。
しかしその当時義経を卑怯という声は確認されておらず、まさに「当時」の九条兼実なんて先述の通り義経を「武勇と仁義において佳名を残す」「義士」とまで言っています。現代の一部の人が空想する「当時義経はルール違反をした」は、史料を無視した幻想に過ぎません。
また、軍記物語を含めてもこの頃の武士で「最初に名乗り合って一騎打ち」している人は誰もいません。
そんな「当時のルール」は一部の現代人の幻想なのです。
強いて言うと『平治物語』の中で源義平と平重盛がやっていますが、舞台の矛盾などから物語の創作と見られます。
「当時こうだったはず」も「ルールがあったらしい」も幻想の虚構なのです。平家も奇襲も焼き討ちもやってますしね。

○政治的無能説の払拭
「義経は政治的才能が皆無なせいで頼朝と不和になり、結局身を滅ぼした」…という説が長らく流布されていました。かの司馬遼太郎御大も義経を「政治的痴呆」とまで書いていますので、これの影響力もあり。
しかし当時リアルタイムで書かれた玉葉の重視化などにより、それは誤った見方だという意見が多く出ています。
朝廷と鎌倉という、ある意味水と油のバランサ―をしながら平家を討ち、京にあっては鎌倉の頼朝と綿密に連携して政務を全うしていたことが記録されているからです。ていうか司馬作品は小説ですから…。

○義経不細工説の流布
上記の通りこれは平家物語の中のセリフ由来ですが、記録と言えるものではありません。しかしそうした事実は伏せられ、「本当は不細工だったという記録が残っている」と面白おかしく吹聴されました。
「美男子とされてきた英雄が実は不美人だった」というのが、それほど愉快だったのでしょうか…。


<平成、令和 昭和にねじ曲がった義経観のこれから>


昭和期の間、専門家の手に寄らない雑学系の書籍(コンビニ本など)や、ブログ・SNS等での気軽な発信が可能になったことで、上記の
「卑怯者説」
「水夫射殺説」
「政治的無能説」

などが面白おかしく、史実のように言い切られ、広められてきました。
これらの発信に多くの場合共通しているのは、「発信者が、自分で史料を読んでいないこと」です。

令和の今でも、これらを歴史的事実のように唱えている人々は沢山います。
後代の伝説もまたひとつの人物像ではありますが、史料上の人物と創作エピソードを分けることで、歴史の妙味はさらに深まると思います。

不思議なもので、ひとつのエピソードを知る度に、まだまだ自分が知らないことの方が多いことを思い知らされ、歴史上の人物のことを「本当は」「実は」といった言葉で語れなくなっていきます。
それもまた面白さのひとつ。
どのエピソードが、どこでどのように生まれたのか? なんてことも、ぜひ歴史の楽しみにしてみてください。


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