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約3ヶ月ぶりに出かけた日の日記


 三月末ぶりに電車に乗って外出をした。三菱一号館美術館の『画家の見た子供展』を、訪れるのが目的だ。電車に乗るのがあまりにも久しぶりだったせいで、狭い空間に他人とともに閉じ込められることに恐怖を覚えていたけれど、乗ってみてしまえば意外と大丈夫だった。人は人にどこまでも無関心で、無機質な箱は静かにわたしを目的地へと攫ってゆく。人間同士の世界なんて、もともと「ディスタンス」だ。

 「久しぶりだね」そう言いながら友達と駅で落ち会って、ビルの隙間から差し込む真っ直ぐな日差しを全身で浴びながら歩く。久々に照らされた太陽の暑さに、いつの間にか季節が巡っていたことを知る。前に電車に乗って出かけたあの日には、わたしはタイツを履いていたというのに、今日着ているのはノースリーブだ。友人の服も、黄色いレモンの散りばめられたノースリーブのシャツ。こんなにも、二人して夏を象徴するような服装で歩いているのに、わたしはこの季節の到来を素直に喜べない。桜の木の下に置いていかれたままの、わたしの心のひとかけらを、いったいどうしたらいいんだろう。

 Café1984に入って、アイスコーヒーを注文した。誰もが横並びに並んでいるのを見て、私たちも隣同士で席につく。変わらない世界の中の、小さい、けれど確かな変化。その中で、「生きていることに意味なんてないよね」なんて、とことん薄暗い気持ちを分かち合う、いつもとなんら変わらないわたしたち。変わらないものと変わったものが混ざり合った妙な世界。コーヒーに溶けてゆくミルクの渦模様を、じっと見る。

 一時間ちょっと話しただろうか、予約の時間がきたので席を立ち、お会計を経て、赤いレンガの美術館へと足を踏み入れる。検温をし、チケットを見せ、エレベーターに乗る。三階の入口をくぐった瞬間のすんとした、混じり気のない静寂に心を震わせる。ああ、この心地だ。来るべきところへ来られたことへの、途方もない郷愁と安心感。わたしはこの静寂に、いつだって心を洗われる。美術館は必要だと、切実に心が叫び出す。

 ボナールをはじめとしたナビ派の画家によって書かれた、百点近い子供の絵画たち。いくつもいくつも眺めていたら、胸がとことん締め付けられて、鼻の奥がツンとした。そこには、圧倒的な生の気配が渦巻いていた
 100年も離れた昔の時代、訪れたことのない街、出会ったことのない人。なのに、絵画を見た瞬間に、目の前でモデルが喋り出す。猫がにゃあと鳴き、しなやかに歩き出す。喧騒が耳によみがえる。車は走り、木々は揺れ、陽光はその陰影を映しだす海はきらめき、風はカーテンを揺らす。料理は湯気を立ちのぼらせる。ドレスの裾が揺れる。
 そこには生活がある。わたしはたしかにそこにいる。画家の見た世界を、わたしも見ている。

 それは、外出を自粛したことで孤独に慣れ親しんだわたしにとっては、あまりにも大きすぎる邂逅だった。電車や駅で人に囲まれた瞬間よりも、ずっと他者の息遣いを切実に、全身で嗅ぎ取っていた。生きていた、生きていたんだ。この画家も、モデルも、みんなたしかに生きていたんだ。その生の気配はとことん重く、わたしの心に隕石を降らせる。

 自分の存在の軽さに耐えられない。そんなどうしようもない考えが、非常事態下でわたしの心を蝕んだ。無邪気さと残虐さを兼ねそなえた子どものころに、ひたすらに小さなアリを潰して歩いたことがあったけれど、年が明けて世界を覆い尽くした非常事態が明らかにしたのは、結局、人間も世界という大きな存在に対しては、あのアリとなんら変わらないという、とことん無慈悲で残酷な事実だった。人は、生きていることに対して、必死に意味を紐付けようとなんてするけれど、そんなものはウイルスの前ではなんら効果を発揮せず、私たちはただただ運命としか言いようのない大きな何かに流されることしかできない。本当に、無力で何もできない。

 けれど、やっぱり同時に、存在はとことん重いのだ。絵画の中の風景に宿る息遣いに、こんなにも心を撹乱されていること。魂を削った証拠のような筆の跡に、胸の奥をぎゅっと掴まれていること。ここで書いてる内容は、今日の友人との会話に確実に影響を受けているということ。その重さを無視することは、わたしには決してできない。

 約3ヶ月ぶりの外出が教えてくれたのは、結局わたしは、存在の相反する軽さと重さに引き裂かれながら、抗えない大きな何かに押し流されながらも、この重くて軽い生をまっとうするしかなく、それ以外の選択肢は存在しないのだという、至極当たり前の事実だった。でもそれを認識できたことすらも、この3ヶ月ですっかり滅入ってしまった自分にとっては、大きな進歩のように思う。

 もう深夜なので、今日はここでおしまいにするけれど、結論としては、本当に出かけてよかった。でもとことん疲れてしまったようで、帰ってきてから二時間ほど、うとうとと眠り込んでしまった。今後もそんなにしょっちゅう外出する予定はないけれど、それでも体力だけは戻さなければと思う。体力が戻り、情勢もいつか落ち着いた暁には、大切な人たちと会ってその存在の重さを痛感したい。それまで静かに、丁寧に生を積み重ねていこう。そう決意した、6月17日。


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