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この言葉が、ミモザの花のように未来を照らす光の一部になるのなら−国際女性デーに思うこと



女性として生まれ出てしまったことに対する、原罪にも似た不安定で湿った感情が、胸の奥底に絶えずこびりついている。いつからかはわからない。女性性への漠然とした嫌悪感。


「わたしが女性じゃなければ」そうした感情を一度も抱かない女性など、いるのだろうか。そんな女性は存在しないにしても、その反実仮想を切実なものとして抱え込んでしまう回数は、きっとそれぞれの物語のあらすじによって差があるだろう。
ブルゾンちえみのように「女に生まれてよかった」と日々実感しながら、女性であることを喜んで生きている女性もいれば、「生まれる前に性別を選べるならば、男性に生まれたかった」と毎日のように祈ってしまう女性もいるはずだ。
わたしは、後者に当たる類の女性である。


小さい頃から活発な子供だった。自分の意見はまっすぐに主張し、時には喧嘩も辞さないような、それなのに心は人一倍繊細で、よく泣くしよく怒る、そんな子供。わたしのアイデンティティは自然とその活発さと繊細さに同時に強く宿り、22歳になった今でも一見対極に位置するこの二つの性質は、わたしの核となっている。
しかしその人の目につきやすい「活発さ」、それが社会的には「女の子らしくない」と判断され、咎められてしまうということ。いま思い返せば、幼い頃からうっすらと、その言説には気がついていたように思う。


幼稚園のとき、二人姉妹の姉であるわたしに対して親戚が「妹はお化粧してお料理もして女の子っぽくなりそうだけど、お姉ちゃんの方は化粧もせず男みたいになりそうだよね」と言ったこと。
高校時代、ショートにしたら同級生に「髪を切ったら中身の女の子らしさも失ったよね」と言われたこと。
大学に入って、友人の男子たちに「女の子らしさ」がないという理由で「お前男だもんな(笑)」「ほんと女子としてダメじゃん(笑)」「婚期逃さないようにね(笑)」と、揶揄されたこと。


そんなの、誰だってなんの気無しに発言しうる、コミュニケーションの一環としてのジョークだろう。わかっている。
けれど、身体において同じ箇所を繰り返し痛め続けると次第に治りが悪くなり、どんどん膿んでいくのと同様に、心だって同じ箇所を繰り返し痛めたら、傷はどんどん深くなり、最後には治らないまま腐っていってしまう。かさぶたになった傷口を剥がして、血が溢れて、消毒もできないままさらに傷を深く掘って。その繰り返し。


そういった発言を繰り返されるたびにわたしは、自分の性格は女性にふさわしくないのだと理解し、「わたしが女性に生まれていなければ、こんな気持ちにならなかったのかな」と強く思い込んだ。
その願いは「不完全な女性」であることへの罪悪感へと結びつき、「女性に生まれてしまってごめんなさい」という、最初に述べた原罪の感覚と結びつき、少しずつわたしの心を蝕んでいった。

最初にわたしは、自分が女性性を嫌悪しているといった書き方をしたが、実際のところそれは少し違っていて、わたしは女性性自体を原罪のように思っているわけではなかった。
本当にわたしが嫌悪していたのは、「こんなわたしが女性として生まれてしまった」という事実に対してで、それは自己に対する究極の卑下の産物だった。


「でも、わたしが強ければこんなの耐えられるのに」「わたしが女の子らしさを身につければ済む話だから」ずっと、そう信じて、人から見えないところで泣いてきた。
でも、フェミニズムを学び始めた今ならわかる。
わたしは強くなる必要などなくて、弱いままでも侵害されずに生きる権利を有しているのだと。「女の子らしく」などなくても、それを咎められたりする必要はまったくないのだと。わたしは、ありのままの自分を大切にしていいのだと。


上記に挙げたわたしが傷ついたと感じた発言の数々は、きっと、世間では「普通」とされているコミュニケーションの一環だろう、と述べた。
けれど、だからこそ、誰かを犠牲にして成り立たせる「普通」なんて、もう終わりにしてもいいんじゃないだろうか。そう思う。
「女性らしく」ないからって、誰も咎められたりせずに、誰もがそれぞれの個性を、性別にとらわれずに「その人らしさ」として解放できる、そんな社会が訪れてもいいのではないだろうか。


わたしは未だに、かつての呪いの言葉たちから解放されるには至っていない。
先日も、女性ファッション誌のストーリー仕立ての二人の女性の着回し特集で、二人とも三十日めのゴールに「結婚」が設定されているのを目にして、少し苦しくなってしまった。
現代社会における、若い女性を中心に流布された「結婚」という神話と、「結婚できるのはおしとやかで『女性らしい』女性のみ」といったような、様々な雑誌や漫画やテレビ番組で刷り込まれた言説を思い出す。同時に、「そんなんじゃ結婚できないよ」と、ありがたいアドバイスをくれた人々の顔も。
「結婚」「愛され」「モテ」という単語は、往々にして「女性らしさ」とセットになって語られることが多いので、とても苦手だ。


でも、そんな呪いに縛られながらも、少しずつ、ありのままの自分を肯定してもいいのだというメッセージを伝えてくれるフェミニズムを学び続けること。フェミニストの人たちと連帯すること。その連帯の、優しさの結び目で少しでも傷が言えること、戦おうと思えること。それは、確実にエンパワメントとなっている。
それが、わたしがフェミニズムに向き合い続ける理由なのだ。


最後に。
わたしはフェミニストだし、「女性らしさ」の圧力に苦しんできた人間だけれど、それは「女性らしさ」を好む女性たちを否定したいわけではない。
「女性らしい」服を着ることも、現代社会で「女性らしさ」とみなされている特性を持ち合わせていることも、「女性らしい」とみなされるものを好んでいることも、恋愛的に「愛され」たいと願うことも、その人たちのとても素敵な長所であり、個性であると思う。
ただ、それを「女性らしさ」という属性に還元するような言葉で定義する必要はないと思っていて、かつ、女性に対する「こうあるべき」という圧力として蔓延する必要はないと思っているということだ。どんな性質も、「女性らしくないとダメ」「モテなきゃダメ」そういった、「〜しなきゃダメ」に転化すると、途端に暴力として機能する。


どんな身体的特徴を有していようと、どんな服を着てようと、どんな性格をしていようとどんな行動をとろうと、それは性別によるものではなく、その人であることに依拠しているということ。
恋愛や結婚をしようがしなかろうが、私たちは個人として尊重される権利があるということ。そうしてどんな女性でも、のびのびと生きていける自由があること。

わたしが手に入れたいと思うのは、そんなふうに言葉にすると陳腐で、だけどいまの居場所では到底手に届かない、だからこそ声をあげる必要がある、そんな世界なのである。


今日の社会を生きるひとりの女性として、わたしは、この文章が国際女性デーに響く声の連なりの一つとして、力強い渦の一部と化していくことを強く願う。
同時に、黄色く心を照らすミモザの花のように、未来を照らす光の一部になれたら。そう祈る。

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