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学歴がある=頭がいいなのか


以前、留学先に来てからありのままで人を見れるようになった、という話をしたけれど、今回はその延長で、学歴社会について話したい。

結論から言ってしまうと、「学歴」という言葉が私は好きではない。学歴で一体その人の何を測れるの?と思ってしまう。
なぜなら私にとっては、「勉強ができる」=「頭がいい」ではないから。勉強はあくまでもただのスキルであって、頭の良さとは本質的に異なっていると思うのだ。
そして私が憧憬の念に胸を焦がしてしまうのは、「勉強ができる人」よりも「頭がいい」人。
そう考えるようになったのは、留学先と旅先であることに気が付いたのがきっかけだ。


スイスの大学システム

他の国に関してはわからないけれど、現在私が留学しているスイスには、大学の入学試験なるものがない。そもそも大学が国に10個ほどしかなくて、多少の優劣の差はあるものの、ほぼ同じ水準の教育環境を提供している。小学生くらいのときに、大学に行くか行かないかの選択を行って、大学に行くルートを選べば誰でも平等に教育を受けられるということらしい。

入学試験によるスクリーニングがないということはすなわち、極端な例だけれど東大レベルの学力を持つ人からいわゆるFラン(という言い方は好まないのだけれど、一番伝わりやすい表現なので悪しからず)レベルの学力を持つ人が、同じ教室に座って同じ授業を受けているということだ。日本の大学生からしたら「それで大丈夫なの?」と思ってしまうところだけれど、特にそれで問題が生じている様子は見受けられない。

それを見ていると、日本においてはあらゆる入学の機会において受験が存在するから、小・中・高と勉強が得意な人たちがそれ相応の教育を受けられるように絞られていくけれど、勉強というのは機会があれば意外と誰もが同じように(多少の向き不向きはあるだろうけれど)こなせるものなのかもしれない、と感じられるようになった。そしてその気づきに付随して、「学歴ってもしかしてそこまで重要ではないのでは?」という疑問が浮かぶようになったのだ。

そもそも、テストも暗記ではなくて自分の考えを論述で説明するものが多く、「勉強ができる」という物差し自体も異なっているから、比較するのが難しいのが現状なのだけれど。


勉強できる=頭がいい?

勉強ができるということ、すなわちいい学歴を持っているということは、そのまま頭がいいということになるのだろうか。
私は、勉強ができる人に頭がいい人は確かに多いし、頭がいい人に勉強ができる人も確かに多いけれど、それらは必要十分条件ではないと思う。数学弱者なりに頑張って説明すると、「頭がいい」と「勉強ができる」は全く別物であって、ベン図の重なっているところが広い、というイメージだ。

そしてそう考えた瞬間に頭をよぎるのが、頭がいいってどういうことだろう?という問い。

私自身は、頭のいい人=物事の本質を見抜く力を持っている人だと思っている。

以前も述べたけれど、私たちが現在生きる社会においては、物事や人物の本質を見つめるには弊害となる要素が多すぎる。学歴フィルターを筆頭に、あらゆるタイプの偏見が社会に根付いてしまっていて、私たちはその物差しを当たり前のものとして飲み込んでしまっている。最悪の場合、自分がフィルターをかけてしまっていることにすら、気がつけない。

そんな社会において、偏見に惑わされずに自分の物差しを通してものごとを判断できる人が、真に「頭のいい人」なのではないかと思う。

物事の表層に惑わされずにその本質を見極められる人というのは、すなわち相手の立場に立って物事を考えられる人であるということだから、言い換えると頭のいい人とは他人の気持ちを慮れる人なのかもしれない。こうまとめるとなんだか陳腐に聞こえてしまうけれど…。

他人の立場を理解して、その気持ちを推し測るという行動は、簡単なように見えて一番難しい。幼稚園で誰もが「お友達の気持ちを考えましょう」なんて教えられて過ごすけれど、その基本的な思いやりを大人になっても自分の胸のうちに刻んで行動できる人間が、いったいどれほどいるだろう?


ナチスに抵抗した人々

これはまた別の記事で詳しく書こうと思っているのだけれど、先月、ポーランドでアウシュヴィッツ収容所を見学したのち、ベルリンで戦争関連の博物館を巡る旅をした。
ベルリンでは、戦争当時にナチスに抵抗した人々について展示してある博物館にいくつか訪れた。そして私がそれらの展示物は、私に「本当の頭の良さ」について考えるきっかけを与えてくれた。

それらの博物館においては、第二次世界大戦当時、誰もがナチスを崇拝し、社会全体がその残虐な行為を容認し、彼らの思想に蝕まれてしまっている中で、自分自身の価値観を、善悪の基準を信じ抜き、迫害されている人々のために行動を起こした人間の生きた跡が、その信念のしるしが、壁一面に堂々と展示されていた。そんな人々の残した台詞や、写真の中のまっすぐな笑顔は、私の心を否応なしに揺さぶって、観ていて何度も涙が滲んできてしまった。

その信念の強さと美しく潔い行動力を、私は「頭がいい」ことの証であると定義する。そして私も、そんな「頭のいい」人間になりたいと強く願う。

勉強は誰だって訓練すればそれなりにできるようになるけれど、自分の核となる思想を強く抱き、他者の気持ちを慮り、それを実行に移すということは、誰もが簡単成し遂げられることでは、決してない。人が向かい合って生きていくのは答案用紙ではなくて、ひとりひとりの人間だ。

学歴で比較されたり、まるで学歴があるから自分のことを人間的にも素晴らしいと思っているような人に出会って嫌な思いをすることも少なくない毎日だけれど、だからこそ私はそんな価値観から離れて人やものを見極めたい。
そして自分の核となる価値観をしっかりと養って、それを基盤に他者に寄り添える人間になりたい。もちろんたくさん勉強して知性と教養を身につけた人間になりたいけれど、それと同時に他人に誠意を持って向かい合える人間でもありたいのだ。


最後に、そんな博物館で私が心を掴まれた「抵抗者たち」の笑顔をいくつか添えて、今回のnoteを終わりにしようと思う。ちなみにトップの写真も、反ナチス主義を貫き多数のユダヤ人を匿った、オットー・ヴァイトという男性とユダヤ人たちの集合写真である。

このnoteが少しでも、読んでくださった方にとって、「学歴」よりも大切なものについて考えるきっかけになれば嬉しいです。



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