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「わたし」の若草物語ー考察


⚠️こちらのnoteは『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』のネタバレを含みます。未鑑賞の方はご注意ください。

↓予告編はこちらから


Ⅰ.ジョーとローリー、ふたりはシンメ


 「シンメ」という言葉がある。ジャニーズのグループにおいて、左右対称の位置に立つふたりを指す用語だ。「シンメ」のふたりは、ともに競い合うライバルであり、ともに困難を乗り越える同志でもある。ふたりは、友情以上に堅く、しかし恋愛とは異なる種類の"ship"を築き上げる。それは、どんなに鋭いハサミでも切ることのできない、堅くて厚いふたりだけの絆。

 ジョーとローリーは、まさにこの「シンメ」のような存在だ。公式のパンフレットでも、合わせ鏡とか双子とか、服を交換しているとか、そういったエピソードが明かされている。ふたりの魂は、色も形もおんなじだ。だからこそ、ふたりは互いでいることに安らぎを感じ、打ち解け合う。けれど、その瞳に映る世界は、果たして本当に同じものだったのだろうか。

 四姉妹の次女として育ったジョー。お金のために髪を売ったり、生死も不明である父を待ち続けたり、妹が体調を崩したり、「結婚」を素晴らしいものとして勧められることに違和感を覚えたり。その感情を言葉にすることで生のバランスをなんとか保っているような人。対してローリーは、お金持ちのひとりっ子で、男性で、本も音楽も勉強も、たっぷり与えられてきて育った人。彼は、「吐き出さないと生きていけない」人では決してない。たとえ同じ景色を眺めていても、足元の枯れた花が気になってしまうのがジョーならば、空の広さに素直に喜ぶのがローリーだ。その圧倒的な差異に、ジョーは気づいていた。ローリーは気がつけなかった。

 その「見えているもの」の決定的な裂け目を象徴するのが、二人の恋愛観の差であろう。


LAURIE:I’ve worked hard to please you, and I gave up billiards and everything you didn’t like, and waited and never complained for I hoped you’d love me, though I’m not half good enough 
ローリー:「君を喜ばせようとずっと努力してきた、ビリヤードだってなんだって君が嫌がることは辞めたし、君に愛してほしいと望んでいることだって不満一つ言わずに待っていた。君には物足りないのかもしれないけど。」

 ローリーにとっての愛は、「相手の望むことをすること」だ。それはきっと、与えられてきた人間だからこそ学んだ愛のかたち。だからジョーになんでも合わせて耐えてきた。でもジョーは、「ありのままの自分」でいることがいちばん大切で、愛のために自らを犠牲にして他人に迎合することなど考えられなかった。自分の輪郭を変えずに前に進むことがいちばん大切だった。二人は愛の定義が違ったのだ。かたちの違う愛を、すり合わせられるはずがない。

 印象的なのは、ローリーとジョーが再会したときの会話である。ローリーは「僕をテディと呼ぶのは君だけだよ。エイミーは"my lord"(わたしの旦那様)って呼ぶんだ」と言うのである。このときのローリーのニヤつき顔よ。ティモシー・シャラメの大大大ファンのわたしですら、「旦那様」って呼ばれて嬉しそうにするシャラメには鳥肌が立ったくらいである。これは、おそらくローリーが望んで呼ばせているのだろう。「望むことをしてもらうこと」「望むことをしてあげること」が、ローリーにとっての愛だから。正直このシーンを観たとき、たしかにこれ結婚してたらdisasterだったわジョー正しかったね!と思ってしまった。

 でもだからこそ、ローリーがジョーに「エイミーに対する感情とジョーに対する感情は種類が違う」と明言してくれたのは、本当によかったと思う。彼も、時間をかけてようやく、見えていた景色の違いに気がつけたのだろう。わたしは、物語序盤であんなにやさぐれていたローリーが、あそこまで気持ちを整理できるようになったということに泣きそうになった。現実として、男女の強い絆が必ず恋愛に帰属するわけじゃない。むしろ恋愛ではないけれど強い絆というのは人生においてそうそう巡り会えるものではないので、やっぱり二人の"ship"は本物なのだ。

 オルコット自身にもそういう存在が居たんだろうか、と思って調べたら、スイス時代に巡り会った男の子がモデルのようで。わたしの個人的な思い出の場所(スイスに留学していました)でそうした物語が紡がれたことに、小さな奇跡と運命を感じ嬉しくなりました。

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↑スイスのレマン湖。原作でも大切な役割を果たす場所。

Ⅱ. エイミーと「観る」「観られる」問題


 この作品には紛れもなくグレタ・ガーヴィグ監督からのフェミニズム的メッセージがふんだんに込められており、ローリーからの愛を拒絶し作家として自立することを選んだ主人公であるジョーは、既存の「女性らしさ」に抵抗する存在として描かれている。彼女はコルセットもつけなければ、街中を全力で走りもする。

Jo:“Women have minds and souls as well as just hearts, and they’ve got ambition and talent as well as just beauty. And I’m sick of people saying love is all a woman is fit for.”
ジョー:「女性は心だけじゃなくて知性も魂も持ってる。美しさだけじゃなくて野望も才能も持ってる。女性にふさわしいのは結婚だけなんて言われるのは、もううんざり。」

 『若草物語』の時代から150年経ったとはいえ、女性に対する「結婚」の神話は(特に日本では)根強いし、未だに「結婚」が女性のセーフティネットとしての役割を果たしていることも看過できない。そんな社会に向かって150年前のキャラクターから放たれるこの台詞に、心を揺さぶられる人は多いだろう。

 しかしわたしは同時に、この作品においてジョーとは異なり結婚をする女性、エイミーの、女性としての先進性に注目したい。エイミーは、画家になることを夢見ており、作品内でも絵画を学ぶためにフランスに渡航する。『若草物語』が書かれたのは1868年だ。アメリカ人の女性画家メアリー・カサットが渡仏したのは1866年だが、彼女が父親に「女で画家を目指すなんて」と猛反対されたことや、渡仏したところで絵画の学校には入れてもらえなかったのは有名な話だ。だからこそ彼女は同じくアカデミーからはぐれた印象派と出会い自身の画風を築き上げていくわけだが、エイミーも作中で印象派と似たような雰囲気の作品を手がけていたことを考えると、やはりアート界の性差別に面と立ち向かい才能を開花させようとした(結果的に諦めてしまうけれど)、かなり「新しい」女性であると言えるだろう。

 印象的だったのは、エイミーとローリーがアート界の性差別について議論したのちに、ローリーが自分を描いてくれないかと提案する場面だ。ここから、二人は定期的に会い、エイミーはローリーの分身を、紙の上に生み出していき、静かに愛を育んでいく。

 ここで注意したいのが、西洋絵画において、男性は常に観る側かつ描く側であり、女性は常に観られる側かつ描かれる側であったということだ。しかしエイミーとローリーにおいては、その規範がひっくり返る。エイミーが「まなざす側」であり、ローリーが「まなざされる」側になる。この規範の撹乱こそが、エイミーとローリーを心の深いところで結びつけたのではないだろうか。エイミーができたけれど、ジョーはできなかったこと。それは、「自分の違和感を言葉にしてはっきりと伝えたかどうか」。ジョーはその規範への違和感を、ローリーに対してはっきりと言葉で示すことはできなかった。ひっくり返すことができなかった。ふたりが一緒にいる場面では、ローリーがジョーを見つめてばかりだ。

 そして先ほどの結婚の問題と同様に、アート界に根強くはびこる性差別は、21世紀でもかなり問題となっていることに、150年経っても変わってないじゃん…と少し愕然としてしまった。少し前の作品だが、Guerilla Girlsによるアート作品、"Women Have To Be Naked To Get Into the Museum?"を思い出した。これは、美術館における女性画家の割合が5%以下であり、かつ展示作品の85%が女性の裸であることに抗議した作品だ。この問題も、さらに150年とか経てば流石に解決しているのだろうか。


 エイミーはアートについてだけではなく、さらに女性は生き延びるために結婚が不可欠だという理不尽を理解し、その上で愛のある結婚を果たそうと決意している。以下は、エイミーが結婚について語る公式動画とそのスクリプトである。

https://www.youtube.com/watch?v=k1z0U9qSv5g

Amy : "Well. I’m not a poet, I’m just a woman. And as a woman I have no way to make money, not enough to earn a living and support my family. Even if I had my own money, which I don’t, it would belong to my husband the minute we were married. If we had children they would belong to him not me. They would be his property. "
エイミー:「私は詩人じゃなくてただの女性。そして女性だから、自立して家族を養うのに必要なお金を稼ぐ道がない。もし自分のお金を手に入れたとしても、それは結婚した瞬間に夫のものになる。子供を持ったって、私のものじゃなくて彼のもの。彼の財産になってしまう。」

 ジョーとローリーは、お互いの見えている世界の差異を埋め合うことができなかった。それをするには近すぎたし、似過ぎていたのだ。言葉が要らないほどに親しかったからこそ、肝心な部分を理解し合うことができなかった。エイミーとローリーは、距離があったからこそ、その差異を言葉や言動で埋めることができ、結果的に結婚を遂げることができた。距離と運命の反比例的な皮肉。

 ローリーとエイミーのように、対話を通し、ジェンダーのもたらす差異を埋めた相手と結婚を果たすこと。見えている世界をなるべく重ね合わせた上で、ともに生きようと決意すること。これは、従来の家父長制の枠におさまらない、真の「パートナー」としての結婚であり、グレタ・ガーウィグ的フェミニズムの、新たな形のパートナーシップの提案なのではないだろうか。


Ⅲ. エンディングと日本語版タイトル『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』とは何か

 
 物語の終盤部でジョーは、出版社の男性に女性主人公なら最後に結婚させなきゃダメだ!という指摘を受け、物語を渋々ロマンチックラブ的エンディングに書き換える。そして最後にその本が出版されるのを見守るジョーが映される。その構造は実はメタ的であることが示され、虚構の境界線は揺らぎ、どこまでが創作だったのか?と観客は一瞬混乱に陥ってしまう。そして何より、私たちの頭を一つの大きな疑問がよぎる。「ジョーは結局結婚したの?独身なの?」という問いだ。

 ここではわたしは、二通りの解釈が可能だと考えている。『ストーリー・オブ・マイライフーわたしの若草物語』の主人公が、本当にジョーひとりである可能性と、原作者であるルイザ・メイ・オルコットとジョーが共に主人公であったと考える可能性だ。よりわかりやすく言うと、ラストの大団円を劇の世界と捉えるか、劇中劇の世界として捉えるか、という違いである。

①主人公がジョーひとりだと捉える場合
 この場合、ジョーがベア先生と結ばれているかいないか、はっきりと見極めるのは難しい。結ばれていないかもしれないし、結ばれたけどそれは書きたくなかったのかもしれないし、結ばれ方があそこまでドラマティックではなかったのかもしれない。まあ、その後に続く大団円の未来も現実だと解釈し、結婚していると考えるのが妥当かな。この場合、ひとりで生きるという夢を創作と後世に託した、ということになるのだろうか。

②主人公が実は原作者であるオルコットとジョーの二人だと捉える場合
 主人公が実はオルコット/ジョーである場合、オルコットは生涯独身であったことが明らかにされているので、本を出版した時点でのシアーシャ・ローナン(オルコット/ジョー)は、誰とも結婚していないと推測できるだろう。この場合、最後の大団円の場面は小説の『若草物語』のエンディングであり、オルコット/ジョー自身の私生活とは関係がないといえる。

 わたしは、現時点では②だと考えている。公式パンフレットで監督が「幼い頃の自分にとってのヒロインはジョーだったけれど、大人になってからはオルコットが自分にとってのヒロインになった」と答えているからだ。

 さらに、『若草物語』内でローリーに求婚されたとき、ジョーは"I don’t believe I will ever marry."(いつか結婚するだなんて思えない)と返している。あの場面の切実さを思うと、やはり物語の中でジョーがあんな唐突にロマンチックな結婚を果たすのは不自然だ。というか、ここまでフェミニズムを押し出したあのグレタ監督の映画で、姉妹が全員男性と結婚をするというのもなんだか腑に落ちない。結婚しようとするメグに二人で逃げよう!って言ったりして、あんなに抗ってたのに結局結婚しちゃうんすか?!みたいな、置いてけぼり感を食らってしまう。というかそここそが、『若草物語』の原作ファンも疑問に思ったポイントだったはずである。


 そして何より、『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』というタイトルに、その秘密が隠されているのではないだろうか。このタイトルが発表されたとき、ネット上でかなり物議を醸していたのを覚えている。正直ダサいのは否めないし、なんでわざわざ妙な題名に改変したんだ?!と思うのは、まあ自然な感覚だろう。わたしも、日本用インタビューで、シアーシャとティモシーがわざわざ"Story of My Life"って言ってくれているのが恥ずかしくなったくらいだ。

 しかし、もしもこれが『若草物語』そのものではないというヒントを示唆しているのだとしたら。『若草物語』を執筆した、オルコットの人生にも焦点を当てた物語なのだとしたら。『若草物語』のジョーにおいて、オルコット自身がモデルになっているというのは有名な話だ。オルコットが『若草物語』のモデルとなる人生を経験し、それを執筆していくまでの「わたしの人生の物語」なのだとしたら…。

 そう考えると、『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』というタイトルの改変は、失敗どころかかなり巧妙な仕掛けを施した成功であると言えるだろう。日本の映画業界は、外国映画を輸入するときにポスターやタイトルで失敗しがちなイメージがあるが、これはそのイメージを払拭する素敵な改変だろう。


Ⅳ. おわりに

 ここまでわたしが述べてきたことは、多様な解釈のうちの一つでしかない。ここまで読んでくださった方(あなたです!)が、この解釈を鵜呑みにする必要なんてないし、むしろ、このnoteをきっかけに「でも自分はこう思う」と、自分の解釈を発展させる契機になればいいなと願っている。

 物語は生き物だ。作者の手を離れた時点で受け取り手のものになる。その解釈は、受け手の人生や価値観によって大いに変貌し、その輪郭は人によって大いに異なっている。だからこそ、物語は面白い。物語は私たちを揺り動かす。

 わたしはここに、「わたし」の若草物語を紡ぎ出した。だから、みなさんにもぜひ、「わたし」の若草物語を生み出していってほしいなと思う。まだ映画を観てない方は、ぜひ「わたし」の若草物語を探しに、映画館まで足を運んでいってみてほしい。

 7000字近く(!)にも及ぶ長い文章を読んでくださり、ありがとうございました。それでは。



 

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