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餓 王 鋳金蟲篇 1-5

 イ・ソフタは天空の要害都市である。
 ヒンディークシ山脈のレーへ峠を越えた圏谷に位置する。かつてはそこに氷河があり、氷層の膨大な重量が削り取った凹地だという。
 その峠を頂点に、三方に街道が走る交易の要衝だ。
 レーへ峠は、通り名では白骨峠とも呼ばれる。
 ただ急峻なことだけではなく、氷河が残るほどの低気温であり、多くの命がそこで散っていった。一年の過半は厳冬期にあたり、春には草花が僅かに咲き、僅かに実りある夏を過ぎれば、氷雪の突風が吹き荒ぶ峠だ。
 旅人はその高地に登ることで、頭痛を伴うこともあるという。
 しかも旅人の懐を狙う山賊が潜んでいるらしい。狙いは彼らの路銀だけではなく、積み荷である。
 このイ・ソフタは瑠璃るりの産地であった。
 蒼々とした輝きを湛えたパルブン湖の湖面の輝きを、そのまま結晶させたような玉である。その交易をしている隊商がその高地を歩いているのだ。
 銘産の瑠璃はペルセオンに運ばれて、かの地の王族の首や服や杖を飾るのだ。その代価として多額の銀を交易商は受け取っている。このために幾人もの命が峠に呑まれても、イ・ソフタの名前は羨望の響きを伴う。
 都市はその銀収益で繁栄し、小麦などをあがなうことで市民を養っている。だが主食は嶺羊の干し肉と、山羊の乳からなる駱漿ヨーグルト乾駱チーズである。
「何も好き好んで」とルウ・バは不平を言う。
「こんな山道ばかり」
 風がかなり冷たくなった。朝晩は剃刀のような鋭さで、身を切り裂いてくる。流石にルウ・バも聖衣の巻き方を変えて、両肩を布地に隠している。私も僧衣の袂を縛って寒気を避けている。
 兎の毛皮を使って沓もこしらえた。
 灌木は減ってどの樹木も高くならず、奴隷のように大地に頭をつけているような、ねじ曲がった姿で群生している。そして日陰には苔が密生しているので、足を掬われないように留意する必要がある。
「儂とて避けたい場所なのだが」
 むしろ危険な場所ですらある。これほどの冷気であれば体熱が奪われる。その蓄積が蛇のシャリーラに依る冬眠を喚び起こすかも知れぬ。一旦冬眠してしまうと、気温の上昇がない限り、冬眠は解けない。彼の地において、それは氷河さえ溶けることを意味する。
「せめて凍った岩ではなくて、寝蓙ねわらのある宿に逗留したいものだ」
「それはお主の払いであれば重畳だが」
「抜かせ。マヌの摂理では年長者の功徳の筈だ」
 こうした会話さえ愉しいと感じていた。
「今夜もあれは来るだろうな」
「ああ。連中は夜しか現れない。それで独りでも屠り抜けた。だがあんたのお蔭で楽ができた」
「生ける屍人がたむろして、何を求めているのか。小僧、主は判っておるのか」
「おれにもルウ・バという名がある」
「では儂もあんたではなく僧主とでも呼んでくれ。何れは人里に着く。作法が整っている相手には、巷ではそれなりの対応となるだろうよ」
 夜までに、固守に相応しい露営地を確保せねばならぬ。高山に遮られて、陽が陰るのも早い。道を急いでいると、耳奥にこそ痒く響く音がする。
 断末魔というものだ。
 大股で岩肌を歩き、その音が露になった頃、ルウ・バが眉を顰めた。
「血の匂いだな。まだ新しい」
「そのようだな」
「僧主、は、気づいていたんだろ。やけに足早だと思った」
 羊が数頭斃れており、折り重なるように老婆が俯せになっている。往時は極彩色だった衣服は、日光に褪せており古びている。首筋に触れたが、もう息は絶え絶えで助からぬ。体温だけが朧げに揺らぎを見せている。
「山賊の仕業だ」
「そのようだな」
 私が注目しているのは、老婆の周囲に横倒しになっている籠にあった。そこに体温が視える。人肌に近いものだ。果たして蓋を開けると、そこに怯え切った瞳があった。
 少女のようである。傍目にも寒そうな粗末な衣を着ている。彼女を籠から取り上げたが、小動物のように小刻みに震えている。その震えは寒さからくるものではない。衣服から見て、その老婆とも近親者かも知れぬ。
 覚ったルウ・バが老婆の遺体を隠している気配がする。
 背をそちらに向けて、彼女の視界を逸らした。

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