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長崎異聞 6

 居間の空気が張り詰めている。
 山椒の粒でも噛み込んだような、ぴりりとした緊張がある。
 紅茶というものと、かすていらの甘味を嗜んだのが幻のようだ。
 邸宅の前庭に、俥屋の車軸の軋む音と威勢の良い掛け声がした。それでこの家の主人が帰宅したのであると、醍醐は了解した。
 亮子夫人はすぐに席を立って、玄関まで出迎えに行く。
 ユーリアも慌てて、背もたれのない脇の座椅子に移り、主人の席を心配げに見ている。体温がそこに残っているのを畏れているようだ。
 玄関で話し声がする。
 夫人が醍醐の事を説明しているのであろう。
 はて、と醍醐は思案する。無聊の余り、丸菱には手慰み仕事でもないかと東山手まで訪ねてきた。いや計らんや、それがかの頭取の家に招かれている。
 自分にも奇縁というものがあるものよ、と長崎に立つ前に浅草寺に詣るよう諭した父に感謝した。
 ドアが重い音を立てて開いた。
 煙突のような形の帽子を衣紋掛に掛けて、彼はゆったりと歩いて正面の席に座る。その間に「お帰りなさいませ」とユーリアが起立して迎えたので、殊更に醍醐が無作法に見える。椅子に慣れてないので膝が笑ってしまい、礼を失した。
 空気を割るほどの気骨のある、細身の男であった。
 彼は深々と一人掛けのソファに包まれて、値踏みするかのように醍醐の額を眺めている。その瞬間には醍醐は席を立って平伏している。
「まあ、気にしなさんな」というひび割れた声が降ってくる。
「面をあげなさい。それでは骨相がよくわからん」
「これは不首尾をば」
「良い。寝椅子ソファは儂もかつては苦手であった。御仁は士分と聞いた。兄上は今も旗本とな」
 顔を上げると額に視線が喰い入ってくる。
 当主、陸奥宗光は黒髪に白いものが混じっている。特にびんは白い。椿油を使っていないのだろう、長髭が四方に跳ね上がっている。そして夫人に増して西洋人の如き、涼やかな目をしている。
「どうだ、やらんかね」と卓に肘をついて誘った。腕相撲を所望しているのか、醍醐は袂から上腕を繰り出して肘をつく。あの細身では相手になるまい、手心をどう尽くすものかと逡巡する。
「成程、降参だ」と陸奥は掠れた声で笑った。
「その腕、かなり太刀を振ってきたと見える」
 算盤に手足がついたような男だ、と醍醐は思う。全ての所作を計算して処遇するのだろう。
 ドアの向こうから夫人が彼のお茶を運んできた。それを受け取り、一口唇を湿らせて彼は言う。
「良い強者つわものが転がり込んだものよ、亮子。この御仁に決めた」
「それはようございました」
「亮子よ。卯月を待たずして上京じゃ。従道つぐみち公のお召じゃ。外務大臣に推挙するとよ」
「まあ、剣呑」
「聴かれよ、御仁。儂は今でこそ商人ではあるが、かつては侍だった」
 西郷従道公、つまり総理のお召しであるのか。
「御仁、己が勝つと思っておったろう、戦さはな、ってみないとわからん。けど戦るのはつまらんものよ。儂もどれだけ新撰組には追い回されたか」
 髭を指先で摘みながら、愉しそうに笑う。
 
 

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