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長崎異聞 11

 橘醍醐は、女心は分からぬ。
 ただ慈愛は肌身に染み渡る。
 東山手に住み始めて半月、皐月が巡る頃には鶯の声がそちこちでする。陽は煌々と山の端を舐めて昇ってゆく。一陣の風が吹き渡ると、そこに潮の薫りが混じっている。
 陸奥宗光は内閣府に招聘されて不在である。彼の邸宅に醍醐は間借りしている。
 その部屋の鎧戸を開くと港の全景が見渡せる。瀬渡しの小舟で、小者が櫓をかく姿は珍しいものではない。汽笛が鳴れば、たれの船か窓辺に佇むことなく、分かる。
 長崎奉行所の同輩がうらやむ暮らし向きだが、醍醐には洋食が合わぬ。
 とことん、合わぬ。
 邸宅の食事が、銀嶺洋食店のものであろうとも、だ。
 先般は午餐の〆に乾酪チーズなるものを、食べた。
 初見で魚肝か白子であるかと思い口にしたが、妙に淡白で僅かな酸味がある。平らげた後に事訳を聞くと、何と牛の乳から作るという。魚とは違う塩梅の生臭さのはそういう事か、と嘔吐しかけたものの、ユーリアの哀愁の瞳に思い留まった。
「失礼ながら私、醍醐という名前、調べました。難しい字なので亮子婦人にも尽力頼みました。仏門の言葉だそうです」
「成る程、して」と醍醐は言葉を継ぐ。
 話題が逸れるほど、口の中がさっぱりして良い。
「醍醐というのは、チーズということです。聖徳太子さまもお召し上がりになったというものが、醍醐だそうです。それで現世で最も美味しいものを醍醐味というそうです」
 そうだ、確かに珍味としては旨く頂いた。胃の座り心地が良くないのは、それが獣の乳であるという事だ。
「更に私、調べました。権現さまのお父さまも滋養強壮として、醍醐を召し上がっております。権現さまがいつまでも壮健で在らせましたのも、父上さまの血脈と、母君さま手作りの醍醐ではないかと、思うのです」
 最早、ぐうの音も出ない。
 徳川家康大権現をも、幼き日にこれを食したという。
「それにそれは、私の手作りですわ」
「いや、かたじけない。誠に珍味でござった」
 しかしながら醍醐が今、欲しているのは麦飯と漬物なのである。

 彼の仕事は嬢の警固ばかりではない。
 新地から館内に至る、清国人居留地も探索している。
 そちらは主に奉行所の同輩である義顕と吾郎左に、探索方の命が下りている。醍醐の転居手伝いに破格の給金が出たのは、この危険な任務の手付けという意味合いが含有しているものと知れた。
 たまに醍醐の腕をたのむときもある。
 ある夕暮れ時に二人に案内を受けて、道祖神の脇を上がり館内に足を踏み入れた。朱くて大根程も太い蝋燭が、灯籠に立てられている。
 香辛料の、珍妙な香りがする。
 辺りには清国語が満ちている。
 とても長崎とは地続きであるとは思われぬ。
 橘醍醐は、女心は分からぬ。
 ただ敵視ならば肌に刺さる。


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