フェイタル・ジャックポット

毎日吐きつづけていた頃、夏に受けたストレスチェックなるものの結果が出た。予想どおり高ストレス、早急に対処が必要との事だった。産業医の面談には一月後を要する、思うにこういうことの対応への初動の遅さが取り返しのつかない事態につながるのだと思うのだけれど。精神が死にかけている人間に一か月は牛歩のように遅い。本当に助けを必要としている人間はこの瞬間にも助けを得られず死んでいくのだ。

コミュニケーションがうまくとれない。電話が鳴るのがとにかく怖い、頭がパニックになって何を言われているのか聞き取れない。慣れたら大丈夫?そんなことない、半年毎日10件取ってたって恐怖心は薄れるどころか日増しに強大になって行くばかりだった。

窓口に出れば違う様式の用紙が出てくる。毎日の小さな心の拠り所のスマートフォンは出勤したらすぐさま金庫の中にしまわれて、SNSのチェックもお守りの画像も終業まで奪われたまま。サービス残業の状態化した、毎日定時に業務を終えたことにされる手書きの出勤簿。

とりわけ苦しかったのは昼休憩の時間だ。どこの家のだれそれがどうしたとかいう人の家の噂話ばかり。お金という人の生活に密接に関わる仕事、たふだでさえ人の家の事情に踏み込むようなことばかりすることに心が摩耗していた。人と関わりたくない気持ちが膨らんで、ヘリウムガスをめいっぱい詰め込んだ破裂寸前の風船は人の手から逃れて飛び立ちたがる。食事を終えたらすぐにトイレに籠って音楽を聴いていた。音楽だけが私の支えで、救いだった。

入社式が終わって最初の週末に私を襲ったのは、10年応援し続けたバンドの活動休止の報。でも行けそうなライブは全て平日。ストレスばかりが溜まる。

夜間診療で飛び込んだ内科の先生の薦めもあって、病院を変えてみようと思った。今の病院は自宅からすぐ行けるけれど行ったところで救われないと分かったから。

次の病院は支店の近くで職場の嘱託先、予約が必要なかったのですぐ受診できた。

この頃、私は自分が発達障害なのではないかと思い始めていた。ずっと昔から片付けができない、コミュニケーションが取れない。そんな懸念を口にすると

「まあ人は誰しも発達に偏りがあるから」

なんだか難しい言葉を並び立てられる。処理能力が格段に落ちた頭ではさっぱり何を言っているのか理解できなかった。

「じゃあ今どうしたいか言って」

「分からないです」

押し黙る私。

「早くして、患者さんはまだたくさん待っている。あなただけが患者じゃないんだよ」

「…死にたいです」

引き絞る様に呻いた私。

「それはできない。いいからどうしたいのか、どうなりたいか治療方針を今ここで決めて

思考力の落ちた、何年も前から自尊心をやられている人間にこんなことを求める人間がいるなんて思わなかった。それを決めるのは医師ではないだろうか。患者の意向に沿うと言ってももっと時間をかけて、ゆっくり話すことで急かされていいものではない。

「それじゃあ治療が必要な、私は病気なんですか」

「あなたは病気じゃない。適応障害、だから仕事は続けないといけない」

目の前が真っ暗になった。この生き地獄に耐え続けろ、と目の前の人間は平気で言うのだ。

泣きながら病院を出た、通りすがりの車が撥ねてくれないかと願いながら、ぼろぼろと涙を流しながら帰る。家に帰ってからツイッターで言われたことをぽつぽつと呟くと、ヤブでは…?と言われる。なんでこう、うまくいかないのだろう。

あの医者は勤めている支店の得意客だ。ごまをする支店長、媚を売る渉外の先輩、職場の全てが汚らわしくて気持ち悪くなった。

そしてある週末の夜、一通のメールが来た。「大切なお知らせ」、嫌な響きだなあ。メールを開くと、私にとって一番の心の支えで、一番大切な人が病で次のツアーは療養に専念すると書かれていた。たしかに前のツアーで体を壊していたけれど、手術をしたから大丈夫、と言っていたはずなのに。

あと何日がんばれば会える、それはこの生き地獄の中私にとっての魔法の言葉だった。無理はしてほしくない、体を壊すなんて大事だ。しっかり休んでほしい。けれど、いつ帰ってくるか分からない。彼の顔を見ることが救いの私は、救われない。所謂接触系のイベントで私の顔を見るとすぐに笑ってくれる顔も、メンバー全員との握手が終わった後すぐに両腕を広げて私を抱きしめてくれる細い腕も、頭を撫でてくれる手も。次がいつになるか分からない。

次の日、月曜日の朝。私は起き上がれなくなった。


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