見出し画像

どん底には大地がある

朝ドラ「エール」の「長崎の鐘」の週、あっと息をのんでそのまま数日、思考が止まってしまっていた。30代の私が現実としっかり向き合って生きるようになる助けになった言葉は、永井博士のあの言葉、「どん底には大地がある」だったのだ。すっかり忘れていた。思い返したとき、谷間の泥の上にへたり込んで、空を見上げているイメージがくっきりと蘇るのに、それがこの言葉から授けられたことをすっかり忘れていた。あまりにも自分の物になっていて、いつ読んで、どう自分の中にしみこんだのかさえ忘れていた。どん底まで落ちて、底に大地があることを感じたらそこから希望が生まれるのだというのも一緒に学んだはずなのに、それもすっかり忘れていた。

女は短大に進学するのが一番就職も良くて、4年制大学に行くのは、教師を目指しているときだけだと、まだほとんどの大人が信じていた時代。変わり者として大学院に進学したが、歴史分野で論文を書いている先輩がほとんどいないことに気がついて、我らこそ最先端と気負ってはみたものの、親が願うように結婚して家庭を作り、子どもを産んで育てて一人前という人生観も捨てられず、働く必要がないのに何故働くのかと言われれば反発は覚えても、確信を持った答えも出来ない。官僚の夫は徐々に子育てから手を引いていくし、30代で子持ちでフリーランス研究者を続けるのにはプライドと気合いだけでは足りなくて、スーパーウーマンにならねばと、無理を続けても何も上手くいかない。産後鬱が再発してどうにもならなくなったときに、この言葉に出会ったはずなのだ。

はずなのに、覚えていない。いろいろありすぎて、記憶が飛び飛びなので、消えてしまったのかもしれない。この言葉と、年下の友人の一喝と、それから「鬼の研究」とで、谷間に張った綱渡りのロープの上を止まったら落ちると思い込んで一輪車を漕ぎ続ける、曲芸のような生き方をやめて、暖かい谷間の大地の泥の中にへたり込んで、芽吹いてきた希望を愛でることになったのだ。

一度綱から降りてしまったら、何もかも失ってしまうと思い込んでいたけど、そんなことはなかった。

学校の中だけでも男女平等だということが、中高時代を過ごしたニューヨークでさえなくて、自分も男性と同じ能力を持った人間であることを日々証明し続けて、それでもまだ、父親から愛故に短大進学を勧められ、四年制大学進学と自立した生き方を応援してくれていたはずの母が「子育ても大事な仕事よ」と言ったりする中で育ってきて、どこかに上手い抜け道があるに違いないと、危ういバランスを探って行けば、私だけはハンデを魔法のようにメリットに変える方法を発見できるはずだ。発想の転換で不幸は幸せに変わって、苦しむことがなくなるはずだと思い込むようになっていた。母より上の世代の先輩たちは、戦争で男女バランスが崩れて独身で仕事に生きてきた人を含めて、男を手の平で転がしておだてて幸せにしてあげて、上手く生きていくのよと言うか、男の3倍働くべしと言うかで、良いロールモデルもなくて手探りで闇の中だったのだ。

だが上手くやる方法など幻想だった。谷の底に降りれば、泥をしっかり踏みしめればその下に大地があって、泥に足を取られて転んでも這えば前に進める。自分を邪魔しているのは泥なのだが、泥は乾けば硬い土になる。逃げずに現実を見据えようとすれば、そこに希望が生まれる。

そして、どん底の大地の上で、本当の意味でフェミニズムと出会って、思い込みからの解放を得たのだった。「男性と同じぐらい優れていると見せ続けなくてはならない、やっぱり女はと言われてはならない、弱みを見せてはいけない、見下されるのは、自分が努力していないからだ。」それが知らず知らずに取り込んでしまっていた男性原理=マチズムだったことを知った。自分は女であり、女として生まれた故に差別される側の人間なのだと認めて受け入れて、涙を流して、心が柔らかさと優しさが生まれた。

今の私が生まれた。

その後長い間うつに苦しんだり、限界を知って仕事を諦めたり、子どもたちが不登校になったり、発達障害であることがわかったり、自分が倒れたりと、波瀾万丈の人生が続くのだが(そしてまた夫が倒れている現在)、とにかく、あそこが出発点だった。

覚えていなかったのだけど、永井博士の本を読んだことは幸いだった。絶望の極みであったはずの原子野で生き延びた人たちがいたことは、ずっと心の支えになっている。絶望がやってきても、ああ、またここから希望が生まれるんだなあと思えるようになっている。

ナカイ個人へのサポートはこちらにいただけるとすごく喜びます。本当にありがとう。