(劇評)世界という珈琲の味

三重県文化会館×金沢21世紀美術館 第七劇場×Shakespeare's Wild Sisters Group 日台国際共同プロジェクト Notes Exchange vol.3 『舞台 珈琲時光』の劇評です。
2019年2月17日(日)14:00 金沢21世紀美術館 シアター21

©松原豊 提供:金沢21世紀美術館

 白い床、白い壁。何もない空間に、役者達によって椅子、テーブル、棚、畳、ベッドが運び込まれてくる。運んできた役者達は、客席を向いて立つ。軍艦マーチが聞こえる。その音楽は戦争をイメージさせる。日本と台湾、二つの国にも大きな影響を及ぼした第二次世界大戦。
 舞台『珈琲時光』は、戦争という出来事によって、劇中に起こるばらばらのできごとを全てつかみ取ってはいる。それは、ラストにも再び流れる軍艦マーチが象徴している。ただこの舞台は、戦争という大きな物語を描き出すのではなく、大きな物語の影響下で人知れず消えていった小さな物語達に、少しずつ焦点を当てている。序盤では、カップルがコーヒーショップに長居するために、砂糖を五つもコーヒーに入れた話が男性によって語られる。男女それぞれが、交互にコーヒーに砂糖を入れた。真っ黒なコーヒーに溶かされて見えなくなった白い砂糖の小さな粒達。その一粒一粒は、この舞台に現れた物語の断片達であろう。

 ©松原豊 提供:金沢21世紀美術館

 真っ黒なコーヒーである世界に、それぞれの砂糖である物語を投入したのは、異なる時間と境遇を生きた人々である。しかし、舞台だけは同じだ。そこは屋上に給水塔のある、6階建てのアパート。その別々の階に住む住人達は、それぞれが異なる時間を生きている。この舞台は映画『珈琲時光』にオマージュを捧げた作品だが、映画の登場人物や設定と、舞台の登場人物に関連はない。
 住人は、日本人、台湾人、在日朝鮮人。彼らが生きている年代は1934年から2036年まで幅広い。当日パンフレットには、住人のプロフィールや生きた時代と共に、その時代を象徴する大きな出来事が記載されている。例えば1階に住む1934年の住人Jは、1936年のベルリンオリンピックを間近に控えた時代を生きる。その上の2階に住む1962年の住人Oは、1964年の東京オリンピックを。3階の住人、1987年のAは1988年のソウルオリンピックを。5階の住人Sは2018年の現代を生き、そして6階、最上階の住人Wは、2020年東京オリンピック後の未来、2036年に生きている。
 戦争は国と国との関係で起こることだが、オリンピックもまた国と国との間で、起こすものだ。世界の中の違う地域をひとまとめにする役割を持つものとして、戦争と共にオリンピックもここで機能している。オリンピックの影響はアパートの住人達に、騒音という形で分かりやすく現れる。

©松原豊 提供:金沢21世紀美術館

 劇中では、日本語、台湾後、中国語が使用される。字幕の英語も加えると、4カ国語が舞台上を飛び交っている。それらを全て聞き取り、理解できる人物はそうそういない。17日公演アフタートークのゲストであった、石川県台湾華僑総会会長の高仙桃氏は、話された言語を全て理解できる希な存在であった。彼女にとっては、舞台上でなされる会話は自然なものであったらしい。しかし大多数の観客には言葉の壁は大きく、物語の理解を困難にしたであろう。ただ、当日パンフレットで鳴海康平(演出)が説明していたが、日本が台湾を治めていた頃には、台湾では日本語教育がなされていた。しかし、終戦後には日本語の使用は禁止され、現在、台湾では中国語(北京語)が公用語となっている。この歴史の流れにいた人の中には、三つの言葉を使うことができる人もいるのである。言葉が異なれば、思考も異なるだろう。三つの言語を行き来しながら立つ自分というものは、どのようなものなのか。言葉の理解ができれば、文化の違う他者の理解もできるのだろうか。乱れ飛ぶ多言語は、同じアジアという広い括りにいれられる私達の、違いの部分を際立たせていた。

 多言語は、それぞれ電話や手紙などを使って他者へと届けられていた。恋人を思う気持ち。娘や息子を心配する母の気持ち。父の思い。娘や息子たちが考えること。親子で話している言語が違っても、愛する人を思う気持ち、これは国や言語を超えて共通しているものだろう。
 ただ、登場人物の誰がどのような境遇でいつの時代に生きているのか、言語の壁もあって、観進めていくと混乱してくる。この、個々人の持つ特性だったものが混じり合い、混沌としてくる状況は、同じ括りに入れられた私達の、同じ部分の強調だろうか。時代や立場を超えて同じであるものがあることの確認だろうか。

©松原豊 提供:金沢21世紀美術館

 劇中のいくつかのシーンでは雨が降っている。雨は長く降り続いているらしい。ここでの雨は何を意味するのだろう。自分のいる部屋と、外界とを分けてしまう現象か。また、未来の物語では大気汚染が進んでおり、人々の健康に害を及ぼしているらしい。大気汚染された外界からの避難先としての部屋もまた、外界から分離された空間の強調なのではないか。しかし、部屋には音が飛び込んでくる。先に挙げたオリンピックの影響による建築ラッシュでの騒音。身近な所では、他の部屋からの物音。外界から分離された一人の部屋でも、外との関わりは完全に断たれることはない。それぞれの部屋は個でありながら、全体の一部である。
 同じだけど違う。違うけれど同じ。この二つの状態を行き来しながら、いくつもの物語達は展開される。時間に乗り、けれど大きな歴史となることはなく、コーヒーに溶ける砂糖のように、消えていく物語達。しかし個である物語達が溶け合った全体としてのコーヒーには、甘さが残る。誰が何をしたか、はっきりとした形ではないけれど、誰かが何かを思い動いた記憶達。それらは世界の味を確実に変えている。

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