見出し画像

泥団子をつくる

クリスチャン・ボルタンスキーはフランスの現代アーティストで、大変お恥ずかしいことに私はお名前だけは存じていて直接作品を拝見したことはまだなかったのですが。
数年前にTwitter(現X)のタイムラインで見た彼についてのつぶやきがずっと記憶に残って離れません。

彼は体調が悪い時期に泥団子を作り続けていたそうです。4年間で計3000個になったそうな。googleで調べてもこれという出典が見つからないのですが、どうやら展示のパンフレットにさらっと書いてあったようです。

でも私にとってこの話はさらっと流せるものではありませんでした。

体調が悪い時。何もできない時。
私の悪い癖はそういう時に余裕を持てずに自分を追い込んでしまうのです。そういう自覚があり、完璧主義もいい加減にしないと、なんてよく反省するのですが…
常に自分に価値があること、価値あるものを生み出せるということを証明したい。私は私の人生を無駄なものにはしていない。それは自分に言い聞かせるようです。

泥団子を、つくる。

その泥団子を見たことがないので作品の感想をいうことはできないのですが、その「泥団子をつくりつづける」という行動が私の励ましになり、大好きなエピソードにもなりました。このエピソードがそれだけ励みになるか。

泥団子といえば、文字通り泥で作ったお団子です。食べられませんし、平べったく言えば泥の塊です。この世で価値があるかと言えば、ないでしょう。

でも、その無価値なものをつくるのに没頭する時間があっていい。それは決して無価値などではないのだから。といったら矛盾しているかもしれません。
でもこの無価値さこそ少なくとも私には必要な時間と姿勢、そして心の在り方なのだと感じています。

前回のnote記事でも、人生や人の価値とは、と少しその話題に触れましたが

いつでも自分の価値や価値観を追い求める日々は疲れてしまいます。
私はその日々を今は蟻地獄のようなものだと感じています。

芸術というものは作り手と受け手がいて、作品を通してコミュニケーションが起き、価値が生まれていきます。ただそれは簡単なことではなく、自分の描くモチーフとは、どんな媒体で、どんな形で世に送り出していくのか、答えがどこにあるかわからない道を歩いていくのです。

私の場合は、そうして歩いているうちに道に迷い、絵を買ってもらわないと、という大きなプレッシャーに勝てなくなり、堂々巡りを起こしてしまいました。一歩でも休んだら蟻地獄の穴に落ちてしまう、そのような感覚でがむしゃらに歩き続けて、走り続けて。
生み出すものに価値がないといけない。価値がないと許されない。
今振り返れば、とても悲しい考え方です。
そんな思いをずっと抱えていたから、ボルタンスキーの泥団子のエピソードは私の心に残りました。

人は静かに自分を過ごす時間が必要で、その時間で自分を取り戻すことが必要なのではないでしょうか。
ものすごいスピードで過ぎ去る時間の中で起きていくたくさんの出来事。ひとつひとつをうけとめるには、あまりにも忙しなく、巨大で。
だからこそ自分を取り戻すには相応の時間が必要なのではないかと思います。

ボルタンスキーは4年間、3000個の泥団子をつくりました。
逃げなかったのだな、と思いました。すごい忍耐だと思います。
私もそうでありたい。そう思いました。
無価値に思える時間を過ごすことは怖いです。そこから逃げることはもしかしたら悩むことより簡単に思えるかもしれません。でも。私は彼のようでありたいと思いました。私として、生きたいのであるなら。



よろしければサポートお願い致します。いただいたサポートは作家としての画材費、活動費に使わせていただきます。