見出し画像

Letters 7通目 石井健太

初めて河合さんをイイなと思ったのは、あの時だった。
会社に入って半年くらい経ったくらいか。駅前のファストフードで列に並んでいると、河合さんがハンバーガーのセットをカウンターで受け取っているところだった。
自炊とかしそうな人なのに、ハンバーガーも食べたりするんだな、そんなことを考えながらスマホを見ていた。

バシャッ…

「あ゛ー、ボクのコーラぁ…」

4、5歳くらいか。河合さんの隣のレジで、母親から飲み物を受け取ったばかりの男の子がコーラを思い切り床に零した。どうやったらそうなるんだろうと思うくらい、着ている服にコーラはかかってるし…
母親とか店員が片付けるだろう、そう思いながら、スマホに視線を戻した。

「もう、何やってるのよ!」
「うっ…ごめんなさいぃ…コーラぁ…」

母親が大きなため息をつきながら、息子を叱り、床にばらまかれたドリンクカップを拾い始めた。

「お母さん、息子さんの服、拭いてあげてください。床は私がやりますよ」
「え…」

店員より早く動いたのが河合さんだった。レジにいた店員は、その様子をおどおどしながら見ていて、結局何もせず、次に待っていた人の注文を取り始めた。

「すいません、ほんとに…」
「いいんですよ。服濡れたままだと、風邪ひいちゃいますから」

河合さんは嫌な顔を一つ見せず、にこにこと笑って、床にこぼれたコーラの掃除を手伝っていた。
母親って、あんな感じなのかな。河合さんを見て、なんとなく思った。
小さい頃に母親を亡くしたから、あんまりよく覚えていない。でも…いつも人にお節介を焼く、優しすぎる人だったって父さんは言ってたっけ。

「つめたいよー!コーラぁ!」
「あら、零しちゃってたんですね!新しいコーラ、お渡ししますね!」

ベテランらしき恰幅の良いオバちゃんが階段を下りてきて、状況を把握したのか、すぐにスタッフに指示を出し、新しいコーラを子どもに渡した。

「すいません、本当に…」

母親はオバちゃんに、河合さんに何度も謝っていた。

「大丈夫ですよ!子どもはこぼすものですから!うちの子もまぁよくこぼす!そんなね、いちいち気にしてたらキリがないですから!お母さんも気にしないで下さいね!」

河合さんはオバちゃんが来たことで大丈夫と思ったのか、すっと二階へ上がっていった。片付けるのを手伝ってあげた、と誇示することなく、何事もなかったかのように。
この時、河合さんってイイなと少しだけ思った。

―健太、今日は何食べたい?
―魚の気分!
―了解♪何時くらいに帰れそう?
―たぶん、8か9時!

河合さんをイイなって思ったのは事実だけど、僕には彼女がいる。家も近いから気軽に会えるし、彼女の作る飯もウマい。
この時はそこまで考えてなかったけど、河合さんのこと意識し始めたのはいつだったっけ…

「河合さーん、助けて!」
「どうしたの、村田くん」
「いやぁ…この間、小林が取引先のデータを間違えて削除しちゃって、何故かバックアップも消えちゃってるんだよね」
「あら」
「内勤さんで持ってるデータをUSBに落としてくれないかな?ほんとは俺がやりたいんだけど、今日はどうしても行かなきゃいけないプレゼンあるから、抜けられないんだよね」
「分かった、やっとく」
「マジ助かる!今度、月光のラテ買ってくるわ!」
「そんな気にしないで、村田くん。困った時はお互い様だから」

まだ僕たちが入社して半年くらいだったか。朝まで飲んで、眠気も取れないまま出勤した小林が取引先のデータを削除してしまったことがあった。
幸い大きい被害はないということで、小林は反省文一枚書くのと、しばらく飲みに行くことを禁止されたくらいのお咎めで済んだが、上司の人たちは大変そうに動いていたのを覚えてる。

「取引先のデータ削除するなんて、ありえなくない?」
「しかも朝まで飲んでたんでしょ?マジないわー、仕事なめてるわ」

村田さんも河合さんも快くフォローを受け入れていたが、周囲は‘ありえない‘と小林を非難するように、コソコソと話ていた。
そんな社内の空気の中、小林は下唇を噛みしめながら、我慢して仕事をこなしていたっけ。自業自得とはいえ、あんな風にみんなに言われたら、誰だって社内にい続けることは苦しさを感じるのではないかと思った。

「河合さん、ほんとにすいません…俺のせいで…」
「…小林くん、ちょっと来て」

周囲の嫌な空気を感じながらも、小林は河合さんのデスクまで行って深く頭を下げた。この様子を見ていた僕らは、河合さんに怒られるんだろうな、と思っていた。
案の定、河合さんは小林をオフィスの外に呼び出した。なぜか二人の様子が気になって、そっと二人の後をついていったんだよな。
河合さんと小林は、社員用の休憩室の横にある給湯室へ入っていった。

「ほんとに、すいません...俺が悪いんです、ほんと、責任なくて…」
「小林くん、何飲む?」
「え?」
「私はオレンジジュースにしようかなぁ…」

柱の陰に隠れながら二人の様子を伺っていると、河合さんは給湯室前にある自販機の方に行った。その様子は、個別に呼び出して叱ろうとしている感じではなかった。

「こ、コーラで…」
「はーい」

小林も不思議そうな声で何を飲むか伝えていた。河合さんは何を話すつもりなんだろう。僕もこの先が予想出来なかった。
自販機でオレンジジュースとコーラを買った河合さんは、怒るどころかニコッと笑って、小林にコーラを渡した。

「失敗は誰でもするから、気にしないでいいよ」

河合さんはオレンジジュースを飲みながら、優しく笑っていた。

「私もさ、違う取引先にメールを送っちゃったことあるの。その時、私も友達と朝まで飲んでて、あんまり寝てなかったんだよね。他の会社との取引内容を間違えて送っちゃうとかありえないってすっごく怒られた!
その時ね、フォローしてくれた先輩がいたんだ。大丈夫だからって、ここで失敗して反省したから、次は間違えないように気を付けられる、良い勉強をしたねって言ってくれたの。
その先輩は、A国の会社にヘッドハンティングされて、もう退職しちゃったけど…彼女がフォローしてくれたから、まだこの会社で働き続けることが出来てるんだよね」
「そうなんっすね…」

河合さんは優しい笑顔のまま、自分の過去の失敗を話していた。僕も小林も、内勤のことは河合さんに聞いたら大体答えてくれるからって教えられていたから、元々仕事が出来る人なんだと思っていた。
そんな河合さんも、メールを間違えて送るっていう失敗をしていたんだ…すごく驚いた。

「だから、小林くんも大丈夫!私も他の社員だって、結構ミスしてるもの。そんなに気にしないで大丈夫よ」
「河合さん…」

なんとなく小林が涙目になっているのは想像できた。涙もろい奴だしな。

「でも、同じ失敗を繰り返さないように。しばらく、会社では冷たい目で見られるかもしれないけど、気にしないで。気にしてたら仕事に集中出来なくなるから。分かった?」
「は、はい!」
「ようし、私は先に戻るけど、小林くんは落ち着いたらオフィスに戻っておいで」
「はい!ほんとに…すいませんでした!」

小林が大きな声で謝った。河合さんは給湯室から出てくる。ヤバい、立ち聞きしているのバレないようにしなきゃ…

「お疲れ様ー」
「あ、お疲れ様っす!」

俺は急いで給湯室のフロアに続く階段を駆け下り、今階段を上ってます、という風を装った。
河合さんは僕の方を見て、にこっと笑って階段を下りて行った。
良かった…なんとかやり過ごすことが出来たか…?

「小林?」
「…ぅぐ…」

給湯室に残った小林の様子を伺うと、やっぱり泣いていた。

「落ち着いたら戻ってこいよ」
「う゛…うぅ…」

小林は涙声で反応した。そっとしておいてやろうと思い、オフィスに戻った。もし、今でも母親が生きていたら…河合さんみたいに優しく励ましてくれたんだろうか…そんなことを思ったから、意識し始めたのかな。
もっとこの女性を知りたいって、思ったのかな。

「申し訳ございません、お待たせしました、カレードリアです」
「カレードリア…頼んでないんですけど」
「え…」
「今日のパスタ、頼みました」
「も、申し訳ございません!すぐに確認します!」

S駅にある秘密基地的なカフェに、彼女と一緒に食事に来たのは日曜日だったか。店内は混み合っていて、新人っぽいスタッフはオーダーを間違えてしまった。
注文してから料理が届くまで、40分近くはかかった気がする。それでいて間違えた料理を出されて、彼女はイライラしていた。

「え、ありえなくない?あたし、ちゃんと言ったよね?今日のパスタ下さいって、言ったよね?」

イライラしながら貧乏ゆすりを始めた彼女。当時付き合っていた彼女は、完璧主義みたいな所があって、ちょっとしたミスを許せない子だった。
料理は上手だし、物をハッキリ言う子で裏表なくていい子だなって思って付き合ったけど…正直、貧乏ゆすりをする女の子は嫌だなと思った。

「まぁまぁ、忙しいみたいだしさ、新人っぽいし、許してあげよ」
「健太、優しすぎるって!こういう時は、バシッと怒らないとダメなんだって!」

貧乏ゆすりをしながら、怒った顔でさっきの店員を睨んだ。
河合さんだったらきっと…優しく笑って、大丈夫って言うんだろうな…
この時何故か、河合さんが小林に話をしていた様子を思い出した。
そして、会いたいと思った。河合さんと一緒にいたらきっと…もっと穏やかな時間が過ごせるんじゃないかって、期待している俺がいた。

S駅のカフェで食事を終えた後、O駅を散歩しようということになり、二人でぷらぷらと歩いている途中、彼女が足を止めた。

「健太、見て!すっごい綺麗なウェディングドレス!」
「ほんとだ、綺麗だね」
「いいなぁ…あたしも、このドレス着たいなぁ!」

そうだった。彼女は早く結婚したいとも言っていたっけ。
25歳になる前には結婚して、早く家庭に入りたいって言ってたっけ…
彼女はよく聞いてきた。あたしたちはいつ結婚するのって。
だけど僕は…どうしても、その話題に触れたくなかった。彼女と一緒にいるのは気も使わないし、凄く楽しかったけど…結婚する気はなかった。
でも、どうしてかな。
ショーウィンドウに飾られたウェディングドレスを見たら、思ってしまった。きっと、河合さんに似合うだろうって。

「ねぇ、健太。あたし、結婚したい」

お決まりの彼女の言葉が聞こえてきた。繋いでいた手をぎゅっと強く握ってくる。だけど俺は、その手を離した。

「…ごめん…僕、好きな人が出来た。別れよう」
「え…?」

ウエディングドレス姿の河合さんを想像した時、実感した。
あぁ、河合さんのこと、好きなんだって。自分の気持ちに正直になろうと思って、彼女の目を見て伝えた。
何が起こっているのか理解できない、そんな目をしてこちらを見上げていた、悲しげな顔は、今思い出しても胸が痛む。
だけど、自分の気持ちに正直でいたかった。他の女性を想っているのに、このまま付き合い続けるなんて出来なかった。
酷いことをしているのは分かってる。こんな風に男に突然別れを告げられて、妹に泣きつかれたこともあった。
それでも…このまま彼女と付き合い続けることは出来なかった。

彼女と別れてからしばらくは、仕事に没頭した。会社に行けば河合さんを見れるし、内勤さんだから仕事でやり取りをすることもある。
河合さんの姿を見る。自分の仕事を早く終わらせて、いつも他の社員のサポートをしている。ミスをしても感情に任せて怒ったりしない。大丈夫って優しく笑って、フォローしてくれる。そんな姿を見るだけでも幸せだった。
そしてあの日、勇気を出して誘ったんだ。

「河合さん、今日空いてます?」
「え?」
「雰囲気良さそうなバー、見つけたんですよね。もし河合さんが空いていれば、一緒にどうかな、と思いまして」

あの日はオフィスに二人きりで、チャンスだと思った。だから、河合さんに声をかけた。

「そう、だね。行こっか」

まさかOKが出るとは思っていなかったから、本当に嬉しかった。この日まではただ、姿を見れるだけでも嬉しかったけど、一緒に飲みに行けるってことになって、スキップしたしな。笑
一応、河合さんに彼氏はいないって、村田さんにも確認していたし、河合さんも優しい人だから飲みの誘いは断らないだろうって予想はしてたけど、それでも本当に一緒に飲めるってなると、仕事を進めるスピードも違った。
ミスなく仕事を終わらせて、定時で上がって、河合さんとの時間を楽しみたかった。

そして…ベッドの上でも可愛すぎた。
ちょっと触っただけで、感じて濡れてしまう。河合さんの膣内は狭くて、締め付けも凄い。気を抜くとすぐに射精してしまいそうな程…名器、なんだと思う。
でも…僕以外にも、河合さんを狙っている男がいるとは思ってもいなかった。

「…僕は、河合さんが好きです。君は、どう思う?」

村田さんの家でホームパーティがあった日。河合さんは、前川課長に体を弄ばれていた。でも、無理やりっていう風に見えなかったんだ。
二人とも合意の上で楽しんでいる…そんな風に見えた。
僕のことを好きだから、エッチしてくれてるんだって思ってたけど、違ったようだ。もしかしたら河合さんは、僕とのエッチだけを楽しんでいただけなのかもしれない。そう思うと、村田さんの家にいるのが辛かった。
早く、早く、ここから逃げ出したかった。
視界の隅で、河合さんが追いかけようとしていたのはなんとなく分かった。
だけど、河合さんを目の前にして話す余裕なんてなかった。
ただ僕は、全てをシャットアウトしたかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?