四 信濃川左岸

 兄秋生との険悪な関係は無限に続くように思われた。だが、父の転勤も幸いした。家がまた新潟市の中心部に移ることになったが、兄は中学三年生で高校受験を間近に控えていたので転校せずに、そのまま郊外の元の中学校にバス通学することになった。
 春生も小学六年生だったので、最初、転校することには気乗りしなかったが、以前から受けていた家庭教師の先生が、今度の転居先がその校区内に位置することになる小学校の教育環境が良いことを挙げ、
 「自分の子供だったら即、転校させますよ」
と両親にアドバイスした。結局、親の指示に従い、春生は学期の途中だったが、転居と同時に六年生の六月からその小学校に転校することになった。その後、その新しい小学校に通学したのは、その年度の残りの十ヵ月間だけで、その社宅に住んだのは、その期間と中学一年時の一年間の、合計二年弱だった。特に、最初の十ヵ月間は兄弟の通学方向や生活時間がずれたこともあり、兄弟の衝突は自然に少なくなった。
 新たな社宅は、川端町にあった。前々回に住んでいた昭和橋の近くの社宅は信濃川の右岸だったが、今度は信濃川を挟んで斜めの対岸にあたる、左岸の昭和橋と万代橋の間で、前年から建築中でこの年末に完成予定の八千代橋からは一町ほど万代橋寄りだった。市の商店街の中心地である古町十字路にも徒歩で簡単に出られるところだった。
 家は、都心近くの住宅地の一区画だった。都心側との境界をなす道路に面して板塀で囲まれた前庭のある、初めての戸建て平屋の社宅だった。和室ばかり三部屋の他に広い台所があり、いわゆる3Kの間取りだった。家に風呂はなかったが、すぐそば、角地に立つ隣家から道路を隔てた向かいの角に銭湯があった。
 もともと和風の住宅なので、それぞれ襖や板戸で仕切られているだけで完全に独立した部屋はないが、兄弟で別々の部屋を使えるようにしてもらった。高校受験を控えた兄の秋生は一番奥の六畳の部屋を勉強部屋にした。家全体で収納の押し入れはこの部屋にしかなかった。兄はここで、窓に面して父の片袖机を使った。前の社宅では春生が父の机を使うことが多かったが、父がたぶん最後の昇進試験を終えて、机で勉強する必要が薄れたので、兄が正式に父の机を譲り受けたのだろう。弟の春生は、その隣の、客間としても使う八畳の部屋の一角を自分のコーナーとし、兄弟が対面で使用可能な机をそこに置いて、春生が単独で使うことにした。もともと二人用なので机上が広いという利点があった。春生が使う部屋は書院風で、奥の右側に床の間があり、その左側には天袋と地袋と、その間に丸窓があったが、本来ならあっても良い違い棚が、そこにあった記憶はない。
 家の表から玄関に入ると真っ正面に台所があり、台所の右隣の四畳半の部屋は、家族の居間兼両親の寝室として使うようにした。台所を突き抜けると兄の六畳の部屋がある。玄関から右手には四畳半の居間とその奥の春生の八畳の客間があり、この二部屋を外側から鍵の手に囲むようにして縁側の廊下が走っていた。つまり、廊下の一番奥の左側に八畳間の床の間があり、右側に物置があった。廊下の内側は障子戸、外側はガラス戸になっていて、ガラス戸の外側に板戸がぐるりと引き出せるようになっていたが、室内が真っ暗になるので、板戸は滅多に引き出さなかった。また、建物全体がやや古く、外気に晒されているガラス戸から隙間風が入り、内側の障子戸も隙間が多く、冬はかなり寒かった。

 春生が使っている八畳は客間なので、宿泊客があるとき、春生は居間で両親の脇に寝ることになる。あるとき、父方の祖父母と母方の祖父母が二組とも、偶然なのか同時に滞在して泊まったことがあって、春生は部屋を譲った。その晩は、八畳の客間に二組の祖父母で四人分の客布団を並べて敷いた。しかし、父方の祖父が床の間に一番近い布団に入った後、その配偶者である父方の祖母が、
 「俺あ、あんな奴と一緒に寝るのは嫌だぜ」
と言って、反対の居間側の一番端の布団に入ってしまった。父が説得したが祖母はその布団から出ようとしなかった。やむを得ず、驚いて見ていた母方の祖父母が真ん中に入り、床の間側に祖父同士二人、反対の居間側に祖母同士二人、という順で、並ぶような形になるしかなかった。結局、母方の祖父母を真ん中にして、父方の祖父母は部屋の両端にばらばらに寝るという極めて異例な形になってしまった一晩だった。

 転校したのは昭和橋の左岸のたもとにある小学校だった。木造の昭和橋はまだそのままだったが、二年後の国体の開催を控えて、間もなく掛け替えの工事が始まる予定だった。学校のすぐ近くの三叉路には、春生が五年前に敗血症と診断されるまで、母と一緒に昭和橋を渡って通っていた皮膚科医院があった。医院名を白く横書きにしたガラスの引き戸に見覚えがあった。
 転入した小学六年生のクラスで、春生は、最初のうちは仲間はずれにされて苦しんだ。学年の途中ですでにできあがっているクラスに転入したのだからタイミングが悪かったのは確かだった。それに、郊外の小学校から来た春生と、都市部の小学校の生徒では、お互いに強い違和感があったのも当然だった。しかし、クラス内の人間関係=力関係を個人的に説明しアドバイスしてくれる同級生もいたのは、さすがに都市部の学校だと春生は思った。
 その小学校でも、授業で野球をすることがあった。春生は相変わらず打つ方は好きで、上には少しも上らなかったが、打球が強かったこともあって外野まで抜けて転がっていくことがたびたびあった。そして、たぶん、またメンバー不足だったのだろう、あまりよく知らない同級生が、チームに入らないかと家に来て誘ってくれたが、積極的になれず、春生は断ってしまった。
 春生は仲間はずれになっていたが、しばらくすると、社宅の近所に住む同級生たちから、誕生日会に入らないかと誘われた。それぞれの誕生日に友達を自宅に招待し、招かれた友達はお金を出し合って何かをプレゼントして、皆で食事したり遊んだりして一日を楽しく過ごす、というようなものだった。春生は何度か参加して、それをきっかけに新しい交友関係が少しできた。残念ながら転入したときは既に春生の誕生日は過ぎていたので、春生が家に友達を招くことはなかった。

 川端町の社宅に移った直後のある日、春生が小学校から帰ると、父はウィークデイなのに一人で家にいた。そして、春生の目の前で、母の和だんすの引き出しを力任せに引き出して、その中をいらいらしながら何かを探すようにかき回し、ため息をついたり舌打ちをしながら引き出しをまた荒々しく元に戻す。そしてまた別の引き出しを引いて同じことを繰り返す。いったん離れ、しばらくするとまた母のたんす前に戻って同じ動作。いつからそうやっていたのか、春生が帰宅したからやり出したのか、その前からやっていたのか、それを何度も繰り返す。これは子供の目から見ても完全に意味のない行動で、無意識の不気味な神経症的発作行動のように見えた。春生はただ驚いて、父親に何も質問する気になれず、黙って見ていた。逆に父は、春生が何も聞かないのでずっと同じ動作を繰り返すしかなかったのかもしれない。そうでなければ、意識的に、自分が怒っている、または自分の責任ではないということを子供に見せるためにやっている行動だったのかもしれない。間もなく兄が帰宅すると、案の定、父はまたたんすの前に行き、同じ動作を繰り返し始めた。そして、少し間を置いてから兄と春生を呼んで和だんすの前に座らせ、
 「お母さんがいなくなったんだ。しばらく帰ってこない。いや、ずっと帰ってこないかもしれない。でも、お父さんがいるから何も心配しなくていいからね」
と、口ごもりながら、そして、自分の言葉で涙ぐみながら言った。兄弟は沈黙していた。原因はよく分からないが、これまでも時々あった夫婦喧嘩が、今朝も子供たちが登校した後にまたあって、今回は原因が大きかったか、結果が大(おお)事(ごと)になったかして、母が家を出たらしい。
 少し経ってから、春生は新聞の夕刊を取りに外に出た。しばらくの間、夕日を浴びながら門の外の車の流れを見ていて、家の中に入ったところで、突然、父から抱きすくめられた。春生が直感したのは、父が、春生と低年齢の子供との区別がまるでついていず、アメリカのテレビドラマなどで見る、〈不在の母を寂しそうに待つ、年歯もいかぬ子供を抱きしめる父親〉というような役割を勝手に演じていて、その自分に感動していることだった。なぜ母がいないのか、なぜウィークデイなのに父がその時刻に家にいたのか、なぜもう帰ってこないと言えるのか、そこに自分の責任や反省はないのか、母のタンスの中だけを、何を探すのか、なぜそれを何度も繰り返すのか、なぜ分かりやすく説明しないのか。子供たちへの情報が何もないのだから、「何も心配しなくていい」と言われても、春生にはいつもの夫婦喧嘩と考える以外に手がかりがない。母の不在については、結局、判断保留の宙ぶらりんで、心配するもしないもなく、春生は何も感じてはいなかった。それなのに、犬にさえ普段から簡単な言葉掛けや愛情表現がほとんどない父が、中身のない涙混じりの話をする。その上さらに、春生に対して、小さいとき以降は身体接触などなかったのが、急にこのように大げさな勘違い行動を取るのでは、そこに、ただ強い違和感と不快感しか感じられなかった。強烈なポマードの臭いと口臭、煙草臭、それに水虫薬の臭いが追い打ちをかけた。春生は今回の父の行動に最初から滑稽さと嫌悪を感じていて、その空気がいやで外に出たのだし、すぐに家に入るのを避けて、外の空気を吸いながら車の流れをしばらく眺めていたのだ。それをさらに勝手な誤解と感傷で抱きすくめられて、抵抗するわけにも行かず、そのまま我慢していたが、心底、腸(はらわた)が煮えくり返っていた。春生は、父の自分勝手な芝居臭い感傷とは全く無縁の心理状態だった。
 母は、翌日帰ってきた。その後は、父からも母からもそれぞれあってしかるべき当然の説明は、何もなかった。母は性格が強くて言葉もきついが、ごくたまに思い切った行動を取ることがあり、そのような時ほど、ほとんど弁明することはなかった。だが、母が帰宅したことで春生はさすがにほっと感じる面もあった。
 一体、父のあのタンスの引き出し騒ぎとその後の涙は何だったのか。しかし、子供にとって、父母がいるなら、それ以上の説明を自分から求めることはない。

 この社宅に住んでいたのは春生が小学六年生の六月から中学一年生までのほぼ二年間だが、よもやこれは中学生になってからのことではないだろう。つまり、これも、転居した直後の夏だったはずだ。春生は父の唇を嚙んだことがあった。
 その頃は、前の社宅以来、夏は廊下にデッキチェアを広げて常設していた。春生はよくその上に寝そべって、新聞や雑誌、本などを読んでいた。そこに、小さいとき以来、身体接触がほぼなかった父が、突然に抱きつくことが続いた。しかも、それは何のつもりか、少しずつエスカレートした。父は最初、突然に春生に抱きついてきた。そして次には、春生に抱きついて身動きできないようにして強引にキスをした。そして、春生を押さえつけるたびに無理やり舌を入れてくるようになった。後になるほど、明らかに家に誰もいない時に、春生が活字に熱中している隙を狙った、特殊な接触を目的にしていた。春生はあまりに不愉快で、これも腸(はらわた)が煮えくり返るほどの強い怒りを感じていた。まったく思いがけない不意打ちで、とっさに抵抗できない。前もって撃退するための武器を用意しておくことを考えたが、適当な武器が思いつかない。それに、いつも突然に押さえつけられて身動きできなくなるので、たとえ武器があっても使えないだろう。抵抗する手段は限られる。その対策を思いついて数回目のこの日、とうとう父の唇を思いきり嚙んだのだった。
 父は悲鳴を上げて春生から離れ、痛がってしばらく口を押さえていた。そして、春生とは目を合わさず、眼鏡の奥の、涙がにじんだ目で遠くを見ていた。腑抜けたような醜い顔をしていた。いい気味だと思いながら、春生は再び新聞に目を戻した。強い不快感は我慢するしかなかった。
 この時もやはり不意打ちだったが、春生はかろうじて気を立て直すことができた。しかし、焦ったので反撃のタイミングが早まってしまった。本当は、今度こそ舌を思いきり嚙んでやるつもりだった。計画どおり春生が本気で舌を嚙んだらどうなっていただろうか。
 春生が反撃したので、ひとまず父の一連の、あまりにも不愉快な行為は止まった。しかし、親が子供の心に怒りと憎しみを抱かせて、自身は何も感じなかったのか謝罪すらなかった。父に対するこのやり場のない憤りは、春生の生涯に残り続けることだろう。
 このようなことがあったにもかかわらず、父はその後も、春生が大学生になってからも、春生のことを「反抗期がなかった」と、いつも来客に自慢していた。父にとって「反抗期」とは、暴力とか破壊とか素行不良とか、何らかのあからさまな粗暴な行為としか考えられなかったのだろう。しかし、明らかに性的な意味を持つはずの自分の行為に対して春生が反発し、実際に烈しく反撃を受け、嫌悪されてさえいたのに、それすら全く理解できていないのでは、ただただ自分が無自覚で鈍感であることを公言しているようなものだった。本当に反抗期がない子供なら、むしろその方が大きな問題なのだ、という視点すら父にはなかった。そのような鈍感さが、春生にとっては最も疎ましさを催すことだった。

 転校した頃から、春生は自分の心臓の脈拍に不安を感じることが多かった。
 夏の終わり頃に小学校の屋上で、放課後にドッジボールをしていたときに初めてその発作が起こった。走り回っていて急に心臓が、倍速どころか、三倍速か四倍速ぐらいで脈打ち始めたのだ。胸ばかりではなく、腹部からも大きく拍動が感じられた。自分では状況がよく理解できず不安で、そのまま遊びを続けていたが、走り回るとやはり胸が苦しく、何度も休み休み遊んでいた。突然に始まった頻脈発作は、しばらくたつと深呼吸やちょっとした動作などをきっかけにして、突然に収まった。しかし、元通りに動き回れるようになっても、不安感は強く残った。似たような発作性の頻脈はその後、時々起こるようになった。
 その頻脈発作は、やがて日常的になり、運動しているときばかりではなく、何気なく姿勢を変えたり立ち上がったりするふとした動作で急に起こることがあり、後になると、椅子に座って背もたれに寄りかかるなど、安定した姿勢で何もせずにぼんやりしているときに突然起こるときもあった。
 また、この頃、一回性の不整脈も始まっていた。何もしないで静かにしているときなどに、普段は感じることのない心臓が急に大きく一回脈打ち、その反動で直後に脈が消えたように感じられる。発作性の頻脈も、同じように頻脈が収まるとき、急に心臓が止まったかと感じる、その瞬間が怖かった。そのようなことを何度か経験し、やはり不安があった
 保健室に行ったこともあった。
 「どうしたの?」
と聞く保健の教師に、
 「動悸で時々心臓が止まりそうになるんです」
と私が言うと、たぶん冬の昼休みだったのか、保健室の中央でストーブを背にした応接セットでソファに座って新聞を読んでいた教師が顔を上げて、真顔で、
 「心臓が止まったら大変だコテ」
と方言でからかってきた。答えるのに窮していた春生に、保健教師が体温計を渡して体温を計測させた。そして、動悸以外に特に何も問題がなさそうだと判断したようで、
 「具合が悪かったらまた来てね」
と言って春生を送り出した。

 川端町の社宅は、道路を隔てた真向かいに名の知れた料亭があった。今、インターネットでその料亭を検索してみると、かつての場所から、後に近くの信濃川沿いに移転していたはずのその場所にも、現在は所在が確かめられなくなっている。同様に、春生が住んだことがある市内のどの社宅も現存せず、地割りすら変更されて痕跡も探せないところが多い。春生はこの六十年の時の流れの激しさを改めて実感する。
 春生たちが川端町に住んでいた頃、かつてのその料亭は、門構えが広く、いつも打ち水がしてある車寄せの両脇に、手入れが行き届いた日本庭園のしつらえがあった。転居してからも、以前の習慣通り飼い犬を朝晩に放すと、彼女は道路を横切って頻繁にその前庭に入っていき、時には植栽の中で用を足すので、お詫びをしながら引き取りに行くことがあった。社宅の前の道路は車の往来が結構あり、彼女は時に車に轢かれそうになったりもした。道路に面した社宅は前庭だけ板塀で囲まれていたが、横や後ろ側から隣近所の敷地を通ってどこへでも出て行けたので、家の敷地内の放し飼いもできなかった。
 もともと郊外住まいだったから、家族の誰も犬を散歩させる習慣がなかった。都心部に転居しても、結局、放さなくなっただけで、彼女は家の前庭で鎖でつなぎっぱなしになった。一家では彼女を責任を持って世話をする人間がいなかった。本来は春生が彼女の世話に責任を持つべきだったのだろうが、郊外で拾ってきて飼い始めた当初から、春生にもそのような自覚はなかった。散歩してやらずに時々放してやるこの飼い方は、郊外なら何とかできたが、都心部では無理であるのは明らかだった。
 この犬は、前の社宅にいたとき、春生が小学校の二年の冬に、雪の中で拾ってきたメスの子犬である。その当時、特に郊外では犬の放し飼いや野犬だけでなく、迷い犬も多く、この後も春生は何回も犬を拾ってきたり、連れてきたりして、そのつど親を煩わせた。
 単純にコロと名付けられたこの犬は、日本犬に近い外見で、保健所で登録したときは係官が、
 「柴犬に近いんじゃないか」
と言い、そのまま「柴犬」として登録されたが、後に人気が出た柴犬や豆柴などよりも色合いが濃く、耳は立っているが尻尾の巻きが弱かった。当時は両目の上に黄色っぽい毛の紋がある犬は四つ目、両手足の先が白いのも四つ白と言われ、忌避されることがあると聞いた。春生は特にこだわったわけではないが、コロは目の上に毛変わりは全くなく、白いのも両手先と片足先だけの三つ白で、これもクリアしていた。拾ってきてから、しばらく家の中で飼って家族と一緒に寝ていた。暖かくなる頃に、父が兄と日曜大工で犬小屋を作ってくれ、玄関か外に置かれるようになった。春生に良くなついていて、学校から帰ってくる春生を遠くから見つけて喜んで遠吠えのように鳴いて伏せ、犬小屋の前では鎖をいっぱいに引っ張って、飛び跳ねて春生を迎えてくれた。春生がハーモニカを練習していると、玄関でそれに合わせて遠吠えをしてくれた。前記したように、当時のことだから散歩させるというより、毎日一定時間を放して、帰ってくるのを待つという飼い方だった。そのため、二度、四五匹ずつ子犬を産んだ。保健所にも一回捕獲されて、父親が引き取ってきてくれた。
 そして不運なことに病気を発症した。転居して市の中心部に引っ越してから、その病気が悪化した。飼い犬を登録したときに保健所からもらった「愛犬手帳」には「ポリープ」という病名で説明が載っていたが、当時の春生の印象では犬の性病のような病気で、子供心にも症状が醜くかった。隣家の奥さんも、その症状を目にして顔をしかめていた。
 彼女にとってさらに不運なことに、ちょうどその頃、一家では、父の知人を介してオスのトイプードルの仔犬をもらって家の中で飼い始めた。
 ある日、
 「犬好きな家なら、ということで子犬をもらえるのだが、もらってきてもいいか」
と父から家族に確認があった。翌日、帰宅した父が背広の片側の懐に入れていた手を出すと、その手のひらに、初めて見る、チョコレート色の小さなむく犬の仔犬が乗っていたのだった。その時まで、家族全員が、もらってくる犬が洋犬だということも、そのトイプードルという犬種名も、彼に血統書が付いているということも知らず、そもそも血統書という書類もその時初めて見たのだった。
 雑種のコロを従来通り庭の犬小屋につなぎ、血統書付きの座敷犬と平行して飼っていたのは一年ぐらいだっただろうか。家族は確かに「犬好き」だったが、一家で揃って新たな愛玩犬に夢中になるばかりだった。
 犬への愛情表現すらも乏しかった父だが、この頃わざわざ、下駄履きの春生と一緒に歩いて、当時県庁の前にあった獣医のところに彼女を連れていって診てもらった。獣医は、
 「これは今、市内の犬に大変流行っている病気です」と言った。そして、「どうしてもと言われるなら手術しますが、完全には治らないことが多いですね。ほとんど再発しますよ」と続けた。
 父は、帰る道すがら、
 「これはどうにもならないな。諦めるしかないな」とつぶやいた。

 結局、両親の提案で、六歳の彼女を保健所に引き取ってもらうことになった。その後どうなるのかは、親は明言しなかった。母は、
 「よく診てもらって、病気が治るんだったら治してもらう」
と少しは希望があるような言い方をして春生を納得させようとしたが、それがほとんどあり得ないことであるのは、当時の春生にも分かっていた。彼女の末路がただ曖昧にされていたことだけが、それを安楽死と考えない理由だった。
 その日、春生が学校から帰宅すると、かつて父と兄が日曜大工で作った、トタン葺きで緑の屋根がついた黄色い壁の犬小屋は、空になっていた。入り口の上に兄が作った「沢木コロ」と活字に似せた書体で横書きされた表札がかかっているだけだった。
 後から帰ってきた兄が、「連れて行ったんか?」と言い、廊下のデッキチェアで春生はうなずいて、新聞を読むふりを続けた。
 兄は何年も後になってからもう一度、
「あれは可哀想なことをした」と言った。
 彼女の記憶は、長年春生を苦しめた。今でも苦しみ続けている。彼女の病気の症状はひどかったが、彼女の運命はもっと残酷だった。春生が拾ってきた犬で、ほとんど春生の犬だったから、あのとき春生が彼女への愛情を強く示せば、もっと飼い続けることができただろう。何か他の方法もあって、幸せな生涯を終えられたかもしれない。春生は、彼女の命に対して自分の意志を持たず、無責任で、優柔不断で、無能だった。
 家族が犬好き、動物好きなのは確かにそのとおりだったが、その世話をしなければと考えるのは母と春生だけだった。そして、結局、母よりも時間があり、世話を義務として考える傾向が母より強い春生が世話をほぼ一手に引き受ける形になった。前の社宅では鳩も飼ったことがあるが、この都心部の社宅では、カナリヤやセキセイインコ、その後にも十姉妹や文鳥などを、「一家で動物好き」ということだけで父母がよそからもらってきた。しかし、その世話も春生がするしかなく、それを拒否はしなかったが、後になるにつれて、特に春生が高校生になってからは、時間的に相当の負担になっていった。
 トイプードルが利発な犬種であるのはすぐに分かった。彼自身の個性も陽気で俊敏だった。そのこともあって、彼の名前は、兄が辞典で調べ、父と相談してジーニアス、愛称ジニーと名付けられた。一年後に先住犬のコロと入れ替わり、可愛がられて十七年の長寿を全うした。不規則だが、散歩をする習慣は、春生と母と分担するような形である程度行われるようになっていった。

 小学校の六年で転校してから中学にかけて、春生が困っていたことは、学校に着ていく服がない、という問題だった。
 以前は、ほとんどの服は兄の秋生のお下がりだったし、普段着は膝や肘が破れたまま平気で着ていた。当時、郊外に住んでいたのと、まだ子供だったのとで、春生はそういうことを全く気にしていなかった。そして、服装に関しては、〈あり合わせのものを間に合わせに着る〉という感覚はこの頃に養われたのだった。しかし、成長して体も兄と同じくらいに大きくなってくると、それまで着ていた服は着られなくなってきて、お下がりの服だけでは数の面でも足りなくなってくる。
 しかも、春生は、六年生の途中から市の中心部近くで生活するようになって、これまで自分があまりにも服装に無頓着だったことを多少は意識せざるを得なかった。それでも、夏はまだ簡単な服装ですんだ。問題は、秋から冬に向かう季節だった。次第に寒くなってくると、特に登校時に着る服がなくなってきた。小学生用の折り襟の学生服は兄も着たことがなかったが、幸い、中学生の兄の、確か「ドスキンの学生服」と言っていた制服がドスキンのゆえかトラブルがあって、比較的新しくきれいなままお下がりとしてもらえたので、春生は小学生だったが窮余の策としてその詰め襟の学生服を着るようになった。学生服の下にはこれも中学の兄のお下がりの黒い体操着を着ていた。だから、小学校の卒業時のクラス写真は、折り襟の学生服を着ている同級生も一人いたが、春生は一人だけ詰め襟の学生服を着て写っている。それでも小学校の時はそれほど服装に追い詰められなかったのは、小学生は基本的には何を着ても自由だったからだ。
 中学に進学すると、学校に着ていく服には校則があった。春の間は学生服で全く問題はなかったが、夏の登校時の半袖ワイシャツは、新たに買ってもらった開襟シャツ、当時のいわゆる「ホンコン・シャツ」一枚しかなかった。兄も半袖ワイシャツはわずかな数しか持っていなかったのと、兄の成長が定まってきて、中学・高校と連続して着られるようになったので、弟へのお下がりは出なかったのだろう。春生は、母の洗濯サイクルでは翌日に間に会わないので、やむを得ず、帰宅後に自分が脱いだその半袖ワイシャツをすぐに手洗いして干し、それを翌朝着ていく、というサイクルを繰り返していた。特に母親に頼むことをしなかったのは、犬の世話と同じで、経験から、こういうときには、得てして自分でやった方が確実だったからだ。母が、
 「この子は自分の服は自分で洗っているんですよ」
と隣の奥さんに自慢するように話題にしていた。母でも春生の苦し紛れのやりくりをそんなにも理解していないのかと、苦笑するしかなかった。この半袖ワイシャツの問題は、翌年の夏にもう一枚買ってもらって、厳しい状況を何とか脱することができた。
 春生は、前の住宅にいた頃から家計がかなり逼迫しているのは感じていて、今回の父の転勤でそれが一層進んだと思っていた。父の今回の転勤は昇進の結果のようだったが、役職によっては給与や各種の手当てが減少することもあるのだと、父が母に小声でそんな話をしていたことがあった。春生もそう受け止めていた。だから、学校に着ていく服や普段着も、ほとんど手持ちのものだけでやりくりした。長袖ワイシャツも兄のお下がりで、墨が胸の辺りに集中して飛んだものが一枚しかなかった。しかし、ワイシャツの汚れでも何でも詰め襟の学生服をその上に着て隠せるので、やはり夏以外の季節の方が安心できた。
 中学一年時の夏の前か後か、クラスのあるグループに誘われて、休日に一緒に小旅行に出かけたことがあった。参加者は男女数人ずつで、春生以外の参加者は普段から仲良しグループのようだった。海浜への小旅行で皆が軽装だったが、春生は着る服がなく、まさに授業の時と同じく、詰め襟学生服を着て行ったのだった。汗をかいたときは学生服を脱いで手に持ったが、その下も兄のお古の黒の長袖の体操着だった。春生がたぶん最後に参加を誘われて、それはおそらく欠員でもできたせいなのだろうが、詳しい事情は分からなかった。ただ、服装だけでも自分が場違いな参加者であることは強く感じた。
 服装では、兄にも似たような状況はあったらしく、ずっと後になって、自分は小学校の低学年の頃、校内で誰も着ていないマントを登校時に着させられていた、と愚痴を言っていたことがあった。兄がマントを羽織っているのを春生は直接見た記憶がなかったが、マントの旧制高校生と言えば『金色夜叉』である。『伊豆の踊子』である。『人間失格』はマント旧制中学生だったかもしれない。そのような時代物のマントを、まさか自分たちの時代に新制小学生の兄が着させられていたとは、その話を聞いたときにも春生には信じられないことだった。秋生が何度も言うし、親の前でも言っていたので本当のことだったのだろう。これについては、父や母の育った時代や地域や境遇が関係あっただろうし、それに、たぶん家庭を持った初期からこの時に至るまでも、父母には日常的に経済的逼迫があったのだろう。
 しかし、兄がずっと後になって、しかも頻繁に最も強く愚痴を言っていたのは、マントのことではなく、子供時代から就職するまで、小遣いを特にもらっていなかったということの方だった。春生も秋生も確かに小遣いはなく、お金は必要に応じてもらっていただけだった。秋生が高校を卒業した後、春生は入れ替わりに高校生になって初めて、学校の経費として一定の金額を一括してもらい、その中でやりくりして余ったわずかな額を自分の小遣いに使っていいことになった。兄が高校在学中は、沢木家では兄にも弟にも小遣いを与えていなかったのだ。
 「秋生から三年後に進んでいくだけで春生の時は我が家の経済事情が全然違った」と母はよく言っていた。
 それらは、兄弟の家がただただ経済的な余裕がなかったということにつきた。もっと正確に言えば、父の給与がそれほど伸びず、特に兄が高校生、弟が中学生の時が一番厳しかったが、兄が私立の高校だったのでその授業料が公立よりも格段に高かったことも関係した。兄が私立高校を卒業するまでは、弟にも小遣いがなかったのだ。それに、両親が持ち家を建てるという目標を持っていたためでもあるのだろうと、春生は考えていた。しかし、家計の逼迫は全く別の事情もあったためだったことが、三年後、家を建てた直後に判明するのだった。

 兄の高校進学は、公立高校に落ちて、私立高校に進んだが、これは裏口入学だった。
 当時、新潟市内の普通高校はまだ数が少なく、確か、明治の頃に県内で最初に旧制中学として創設されたいわゆる伝統校の進学校と、もう一つは後発のいわゆる二番手校のみで、県立の普通高校は市内にまだその二つしかなかった。それ以外は公立の商業高校か工業高校、それに当時「定時制」と言っていた夜間高校しかなかったと思う。兄が受験したのは二番手校だったが、そこでも学力レベル的に兄には最初から無理だったようだ。それにもかかわらず兄が、合格可能性が少しはあった職業高校も定時制高校も受けず、あえて二番手の普通高校を受験したのは、本人の願望と親の見栄があったからだと思う。父は後に周囲の人たちに兄の受験を、
 「県(けん)高(こう)に失敗して私立に進んだ」
と言っていたが、「県高」は、伝統校がかつて唯一の県立高校だった時代からの、当時はほぼ固有の呼称であり、父の言葉ははっきり言えば嘘でしかなかった。それは、兄が受験した高校も後発とは言え県立高校ではあるのだし、どちらにしても不合格だったのだから聞こえの良い方で言っておこうという、父の見栄からの嘘だった。
 一回目の受験に不合格だった生徒は、それでも高校に行きたければ、高校浪人するか、当時、市内に一校しかなかった私立の普通高校を受験せざるを得ない。そこが再度不合格になったら、今度は、高校浪人するか就職するしかない。そのため、兄が二番手校を無理に受験して落ちたので、父母も危険を感じて、長男をその私立高校に確実に入学させるために大急ぎで手を回したのだろう。
 そして、成り行きで小学六年生の春生がその話し合いの現場に立ち会う形になり、結果的に兄の裏口入学の打ち合わせを生(なま)で目撃することになったのだった。
 その仲介者は兄が通っていた中学とは別の中学の教師だった。当時はそういうことが可能だったのか、あるいは隠れ副業だったのか、その教師は学習塾も経営していて、そこに兄が通っていた。家が中心部に転居した後も兄は元の中学にバスで通い、授業を受けた後、その教師の学習塾に通い続けて、毎夜遅く帰宅した。その学習塾経営の教師に、両親が事前に入学の斡旋を依頼していたようだった。
 その人が三月の半ば過ぎ、突然に来訪してきたように春生には思えたが、その人自身も父に対面して相当に緊張していたのだろう。居間に通されて父と春生が入っていたコタツに入ると、焦り気味にすぐに話を切り出した。春生は、事前に来客があるという話は知らされていなかったし、席を外すようにも言われなかったので、そのまま炬燵にとどまっていて、話を聞いているうちに何の話か内容が分かってきたが、逆に身動きもできなくなってしまった。その話の中で、私立高校の入学試験での兄の得点や順位も、必要とされる金額も受け渡しの段取りも矢継ぎ早に告げられた。話が進んでから、春生がそこにいることを仲介者が改めて気にしたのか、春生を指して父に、
 「いいんですか、この子がいても?」と聞いた。
 父にしても、その人が居間に通された直後に突然本題に入ってしまったので、たぶん春生がそこにいることに対し、とっさに対応できなかったようだった。聞かれた父は、
 「いや、これは、……大丈夫だから、いいんです」と後付けの判断を曖昧な言葉で返した。
 いずれにしても重要な話はもうほとんど済んでいた。兄が不在だったのは、あえてそうなるような日時を父母が選んだからだと思えるが、それなら春生に事前の退室を要求しなかったのは不思議だった。
 兄は、この話を全く知らないはずだった。春生は、父母が亡くなるまでは、四十年以上、父母の信頼を守った。

 秋生は中学三年か高校一年の時、どういういきさつか母に頼んで、「忍」の一字を筆で書いてもらった。母が何枚も書いたうちの一枚を選ぶと、秋生はそれを手本に自分でも何度も臨書した。さらに、自分の「秋生」の文字も、同じように母に手本を書いてもらい、やはりそれを何度も臨書した。最後に両者を合わせて、自分の書道作品として清書して仕上げ、学校に提出した。そして、しばらくして、それで賞を取ってきた。
 母は少女時代から独身時代まで書道が好きで相当に打ち込んでいたらしく、字が上手だった。特に習っていたというような話は聞いたことがないが、後に春生が北海道に行ったときに、叔母は、
 「お姉さんは、女学校時代に、何枚も何枚も、書いては眺め、眺めては書きしていた。よほど書道が好きだったんだね」と言っていた。
 一方の秋生は一度も書道を習ったことはなく、この時の練習も、書道と言うより、子供時代にやった贋作や模写の応用のように書き直し、仕上げた風があった。秋生はそれぐらいに器用で、その器用さに対する賞をもらったようなものだった。彼の普段のペン書きの字体は、決して上手いとは言えない、癖のあるものだった。

 春生が中学に進学すると、別の小学校の卒業生も合流してシャッフルされたので、転校後の春生の仲間はずれ問題は自然に解消された。しかも、中学では、生徒同士の個人的な親疎よりも、勉強や成績が、生徒間ではより重要な関心事になった。それは兄と春生の力関係が組み替えられたのと似ていた。
 春生が進学した中学に隣接して、信濃川沿いに秋生が進学した私立高校があった。兄弟で十か月ぶりに同じ地域の学校に通学することになり、通学路も生活時間も同じようになった。しかし、なんと言っても、中学生になって春生も身長や体重が伸び、体力的にも次第に兄に追いついてきたので、子供時代のような兄弟同士の直接大きな取っ組み合いの喧嘩はほとんど起こらなくなってきた。
 それに、春生は以前から感じてはいたが、兄から三年遅れて小学、中学、高校と進学するにつれ、家で接していても、英語や数学などの話題から判断しても、兄の学力のなさは顕著に感じられるようになっていった。兄もそれを意識したのか、ずいぶん温和しくはなった。兄が何かに調子づいて、
 「べリ・グッド・グッド!」と言うので、
 「べリ・べリ・グッド!じゃないか」と言ったら、
 「あ、そうか」と簡単に間違いを認めるしかなくなっていた。
 しかし、それにしても些末な小競り合いは続いた。
 兄が入学した私立高校では、男子は坊主刈りが原則だった。兄は仕方なく、嫌々ながら坊主刈りにしたのだが、年齢からも、格好つけ意識は逆に強まったようだった。
 春生の中学と秋生の高校が隣り合っているので、秋生と春生は最初は毎朝一緒に出たが、歩く速度が違うし、特に歩きながら話すこともなかったから、結局別々に家を出ることになった。兄は坊主頭だが、それなりに髪型を気にして、短い髪に痕が付かないよう帽子は手に持ったまま歩き、学校に近くなってからかぶるようにしていた。秋生は自分のお尻がでかいということも気にして、実際はそんなに大きくはなかったのだが、
 「整形手術で小さくしてもらおうかと悩んだ」と言っていた。そのせいか、いつしか、彼はかなり細いきつめのズボンを穿くようになっていた。

 兄がある日、少し早めに家を出ようとして、
 「行ってきます」
と居間を颯爽と通り抜けようとしたところで、自分が貸したバッグを秋生が手に提げているのを見た父が、
 「待て、待て。バッグが壊れる」と追いかけるように引き止めた。
 その日、兄は父のビジネスバッグを借りて通学しようとしたのだが、勉強道具などの荷物を詰め込んだバッグの上下のファスナーのうち、下側の底ファスナーだけを閉じて、バッグの上側は最大限広がった状態でファスナーを閉じてあった。つまり、バッグを前後方向から見た断面で言うと、上は極端に広く、下は狭く閉じる逆三角形の形になっている。学校道具を詰め込んでいるので、上側も下側もファスナーはきつく閉じられた状態になるのだが、たぶん、意図的に逆三角形になるようにしてファスナーを締めたらしかった。父は、
 「そういう状態はバッグに無理がかかる。下のチャックも開けなさい」と言いながら、父自身が底ファスナーを開け、バッグの中身の位置を整えた。
 兄は、
「直さなくていいんだ! 格好悪くなる!」
と不満そうに言っていたが、諦めて、父が直すまま、通常のビジネスバッグのように、断面で言えばやや下広がりの自然な余裕のある本来の台形の形にされて、不満そうに出て行った。
 兄の高校の、男子は全員坊主刈りという校則は、生徒や父兄の間にも不満や批判があった。たぶん、時代の波もあったのだろう、兄の入学後一年か二年で髪に関する校則は廃止され、髪型は自由になった。結局、兄には、格好を付けようとする強い意識が後遺症のように残った。早速髪を伸ばし、整髪料も付け始めた。硬くて太い自分の髪質をかなり気にして、毎朝念入りに髪型を整えて登校していた。
 秋生はクラス写真などを撮るときも、自分だけが必ず右側を向いて、たぶん自分で気に入っていると思われる左側面の顔で写るようにしていた。
 近代初期の肖像写真は個人写真中心で、たぶんカメラ側の注文に応じて正面を向くか左右四十五度くらいのどちらかを向いてポーズを取るのが普通だった。集合写真では皆が正面を向いてカメラ目線で写すのが一般的だったが、それでも、「自分だけ肖像写真」とでもいうように、大勢の中で自分の一番写りが良いと思う角度で斜め横向きのポーズを決めて写っている人物が当時も必ずいた。今でもクラス写真などで必ず別の方角を向いている人物が一人や二人いるもので、兄の秋生も、集合写真では伝統の「自分だけ肖像写真」でポーズを取る一人だった。
 後の話だが、春生が高校の修学旅行で、夜の宿舎で皆で騒いだ後の暗闇の雑談の中で、
 「男なのに、髪型を気にして夜はネットをかぶって寝ているのがいるらしいよ」という話が出て皆で笑ったことがあった。
 春生が修学旅行から帰宅して間もなく、既に就職していた兄の秋生が、いつからか、寝るときにネットをかぶっているのに気がついた。ネットをかぶる男性は、今ではさほど珍しくないようだが。

 兄はもともと常に粗暴だったが、高校進学の前後は特に荒れ気味だった。ある夜、母が台所から、境の板戸を開けて、隣接する自分の部屋で机に向かっている兄と話していた。何がきっかけだったのか分からないが、突然、兄が腹を立てて母に向かってものを投げつけ始めた。春生が耳をそばだてたのは、ものが壁などに当たる激しい騒音でだった、机の上や本立ての教科書やノート、本類、筆入れ、また足下の鞄道具、それに引き出しの中の文具類や小物類など、手当たり次第に母に向かって投げつけた。ものが乱雑にぶつかり落ちる音が響く中で、飛んでくるものを避けながら、母が何かなだめながら散乱したものを拾おうとしていた。途中で居間にいた父が介入し、今度は父が兄をボカスカと音を立てて殴り始めた。殴りながら、
 「みんな金(かね)だ、金(かね)じゃないか!」
 と父は怒鳴り続け、母が止めに入ってようやく収まった。和風の間取りの家で、春生は、兄の隣の部屋にいて、仕切りの襖は開いていたが、突然の騒動に驚いて呆然とするばかりだった。
 春生は、この時の父の言葉を、父が腹立ち紛れに口走っただけの、状況とは無関係な下品な怒声としかその時は理解できず、ずっとそのように記憶していた。しかし、状況を整理してこのように再現してみると、父の言葉は、母と兄の口論に聞き耳を立てていて、兄に対して必然的に発せられた、状況に強い関係がある怒りの言葉だったかもしれないと思うようになった。母と兄の会話の内容は春生の記憶になく再現できないが、お金にまつわる、たとえば小遣いについてなどの、何らかの口論だった可能性がある。
 その日の夜中に兄は家出して、市の中心部にある白山公園にいたところを警察官から保護され、未明に家に連れてこられた。この話は、春生は眠っていて、全く気がつかなかった。数日後に、母からこの日の夜中のことを聞かされたのだった。
 父は暴力的な人間では決してなかった。父が兄に腕力を振るったのはこの時しかなかったと思う。むしろ、兄こそが暴力的な人間だった。小学校入学直後から同級生を殴り、また弟に暴力を振るった。実際の暴力だけではなく、言動そのものが常に暴力的だった。やがて母にも、そして自らの妻にも、すぐに腕力に訴える人間になっていくのだ。

 確か休日の朝だった。春生が布団の中でいつもよりゆっくりとまどろんでいるときだった。襖を隔てた隣室の居間では、父母がいつもの時間にテレビを見ながら朝食を取っていた。父が突然、
 「ええっ!」と驚きの声を上げ、ほぼ同時に母の驚く声も聞こえた。その時、テレビの定時ニュースが始まっていて、その冒頭で、アナウンサーが重苦しい声で、
 「アメリカの、ケネディ大統領が、暗殺されました」と、ニュースを読み上げていたのだった。
 それで春生の意識もはっきりして、ニュースに聞き耳を立てたのだが、アメリカで事件が実際に起きてから数時間経っていた。
 春生は後々も良く、この瞬間を思い出すことがあった。アメリカに関する興味を深めたのは。少し後、むしろ大学に行ってからだった。

 家の冬季の暖房は、それまでは炬燵と大小の火鉢、それに行(あん)火(か)と湯たんぽぐらいなものだった。唯一、秋生の部屋にだけ受験勉強用にガスストーブが置いてあった。秋生が部屋にいるときは袖机の引き出し側とは反対の左側において長時間使いっぱなしなので、熱せられた彼の左足は脛の外側が火傷のように斑(まだら)状に赤くなっていた。だが、この住居の時に電気炬燵と東芝の灯油ストーブが一家に導入された。前後して、洗濯機もこの頃に導入された。特に灯油ストーブが入って室内全体の空気が一気に暖まったときは、生活が一変した感じがあった。この頃が、日本の高度経済成長の恩恵が、生活家電という分かりやすい形を取って、急速に春生の家に及んできた時期なのだろう。

 中学二年になるときに、再び父親が本社に異動したので、今度は信濃川左岸から奥に入って、少し離れた白山浦の社宅に入ることになった。新潟市内で四カ所目の社宅で、今度は戸建てではなく、木造二軒長屋の二階建て和室三部屋。強いて言えばメゾネット形式の3Kの住宅で、風呂は付いていたが、それまで住んだ中では一番古い社宅だったかもしれない。二階が十畳の一部屋で、兄と春生の共同の部屋にして、真ん中を腰から上のカーテンで仕切ってそれぞれのコーナーにした。引っ越しはしたが、同じ中学の校区内だったから、春生も転校はなかった。むしろ春生も秋生も通学時間が半分近くに短縮されて、かなり余裕ができた。そして、たぶんこの住居の時、冷蔵庫と扇風機が一家に導入された。

 その転居から三ヶ月近く経った六月十六日、新潟市で大きな地震があった。ちょうど中学では、春生がいた古い木造校舎二階の教室は給食の真っ最中だった。机の上の食器などが、まるで近くの道路をダンプカーでも通ったかのように、突然、音を立てて揺れ始めた。すぐに横揺れが来て、食器の中のミルクも左右に揺れて、こぼれたミルクが食事用のテーブルシートに広がり始めた。担任教師が食事中の教卓から立ち上がり、大股で教室前方の出口に歩み寄り、開いている引き戸から廊下の様子を見た。彼はまた振り返って窓越しに外の様子を一瞬うかがった。そして、教室内の我々を見ると右手を挙げ、
 「避難!」と叫んだ。
 まだ二十代の独身の英語の先生で、女子ソフトボール部の顧問をやっている、運動神経も判断も機敏な先生だった。皆で一斉に避難し始めた。春生の中学ではその少し前に避難訓練をしていたので、避難経路はだいたい頭に入っていた。
 教室の中程の列の、前から二番目の席にいた春生は、出口近くの生徒に混ざってほとんど先生の後に続いて廊下に出て、教室近くの階段を駆け下りた。地震はまだ続いていた。階段の踊り場のガラス窓が割れる音がし、白壁が崩れ落ちるのが視野の片隅で見えた。階段を二段ずつ上がり下りすることになれていた春生は、このときも二段ずつストライド走法で駆け下りて、踊り場を曲がったところで、ピッチ走法で一段下りする先生を追い抜いた。体育館につながる渡り廊下の継ぎ目にある非常口から、皆でグラウンドに走り出た。
グラウンドにはあちこちの出口や非常口から次々と生徒が出てきた。しゃがんで待機していると、地面が時折揺れるのが分かった。地面が細かくひび割れているのは、土が乾いてひび割れしていたのか、揺れてできた地割れなのか。線路が走る高い盛り土とその下のグラウンドとの間を通る小道が突然陥没し水道管から水が噴き上げた。遠くの空に大きな黒い煙が湧き上がっていた。臨港埠頭の石油タンクが炎上していたらしい。
 「地震が『怖いもの』の最初に挙げられている理由が分かった」と言う声が聞こえた。足下の大地が揺れるという根源的な不安を皆が感じていた。
 グラウンドの一角に集まって緊急の会議をしていた先生方が散り、今後の予定の大まかな見通しと連絡方法、そして、注意事項などがアナウンスされた。勉強道具などがある教室には戻らず、その場で学校は解散になった。
 春生は夏になってから学校では裸足になっていたので、素足のまま歩いて帰るしかなかった。グラウンドは乾いて平坦なままだったが、学校の敷地の外に出ると、道路は凹凸が目立ち、あちこちで路面が濡れているのが不思議だった。線路のガード下の道路は水没していて通れなかったので、高い盛り土を上(のぼ)りその上の線路を越えていくしかなかった。中学の校舎も、道路を挟んで向かいにあるがんセンターの建物も、それほど被害はないようだった。しかし、線路の上に出ると、その向こうの県営アパートがいくつも傾いているのが見えた。さっきまで隣りにいた同級生が住んでいるアパートだった。彼は別の道を通って帰って行ったはずだった。
 線路を超えて、春生は白山浦の通りに出たが、道路は路面電車の軌道ごと波打っていて、ここでも道路脇に水が溜まっていた。ズボンの裾が濡れないよう念のため少しまくって歩いた。道路が波打っていても、アスファルト舗装の道路なので、裸足でも楽々歩けた。車の通行は時々しかなく、人々がそれぞれの家の周囲にいて、壊れたり崩れたりしたものを静かに片付けていた。話し声だけが聞こえた。濁った水があちこちの低地や窪地に溜まっている。盛り上がった道路の中央付近が乾いていて、そこをつたって歩いていった。しかし、そこから右に折れると少し下って低地になり、アスファルト舗装も切れ、さらに曲がって家に近づいていくと、小路の入り口にはかなりの水が溜まっていた。ここまでは車がほとんど通らないのを幸い水のないところを選んで歩いてこれたが、この先は家まで、路面全体に水が張っているところを避けては通れない。春生はズボンを膝までまくり上げた。水がある以外は、家々や道路には地震の被害がほとんど感じられなかった。
家には母がいた。母の話では、父が昼に戻ってきていて食事後に裏庭にいたときに地震が起きたらしい。家の被害がほとんどないのを確認して、父は大急ぎで会社に出て行ったという。
 春生は裏庭に回って裏口から風呂場に入り、水道が止まっているので浴槽に残っていた昨夜の残り湯を使って足を洗った。そして、玄関からサンダルを履いて家の前に出た。母が、これまであまり接点がなかった向かいの家の小父さんと路上で話をしていた。ときどき人は通るけれど、たぶん、地震直後の驚きや不安が収まって、みんな家の中で被害を受けた部分の片付けなどをやっているのか。表には人影はほとんどない、静かな住宅地だった。母と向かいの小父さんの話題の中心はもちろん地震の話で、直前の六月十一日まで開催されていた新潟国体について、
 「国体が終わっていて良かった」
というような話もあったが、その中でもデマについて、
 「いい加減なことを言う奴が出てくるから、そういうことは確かめていかないとね」
という話に、母は、
 「ほんと、そうですよね」
などと相づちを打っていた。春生が初めて経験する大きな地震で、連想するのは授業で学んだり歴史雑誌で読んだりしていた関東大震災だけだったが、それゆえに、震災時には、建物の崩壊や火災以外に特にデマには注意しなければならないというのは、春生の頭の中にも常識としてあった。
 そこに、まさにそのタイミングで、兄が家の前の小路に走って入って来るのが見えた。そして、家の前に母と弟がいるのを見て、遠くから片手を上げて、
 「津波だあ! 津波が来る!」
と、静かな住宅地に響く声で叫んで、水たまりの水を蹴散らしながら走ってきた。運動靴は履いていたが、ズボンの裾はまくっていないので膝までびしょ濡れだった。向かいの小父さんが、おそらく秋生のことを知らなかっただろうが、ほとんど反射的に、
 「あんなのを信じちゃ駄目ですよ」
と小声で言って、くるっと背を向けて自分の家に入っていった。春生も、たった今、デマを警戒する話をしていたばかりなので、兄の様子を見てこれはまずいと思った。母も、困惑したように兄を迎え、
 「さあ、風呂場で足を洗って着替えなさい」
と言って先に立って裏庭に回っていった。秋生は皆が無反応だったことに拍子抜けしたようにおとなしくなって母の後に付いていった。後の秋生の話では、信濃川に近接した場所にある秋生の高校では、生徒がグラウンドに避難しているときに信濃川を小さな津波が上がってきて、それを聞いた一群の生徒が大きく動揺したことがあったらしかった。その動揺を、兄はずっと走り続けて、家にそのまま持ち帰ったようだった。
 その後一週間ぐらい経ってから、連絡があって中学に登校した。春生の担任の先生は、クラス内で各種の伝達確認の後、地震当日の自らの行動に触れた。
 彼は当日の午後、学校から帰宅後に、カメラを持って、地震で落ちたという昭和大橋を見に出かけたそうだ。橋は学校から少し下流の位置にあり、かつての木造の昭和橋から、国体に向けて最新のコンクリート製の昭和大橋に造り替えられてまだ一ヶ月しか経っていなかった。地震と津波の影響で橋のたもとも少し地盤が崩れて水につかっているところもあったらしい。先生の話では、そこでカメラを持って移動しているうちに足下が悪い場所に踏み込んで、そのはずみにカメラを水に落としてしまった、ということのようだった。
 「みんなが大変なこういうときに、興味本位で写真を撮ろうなんていう考えがそもそも間違っていたな」と、彼は腕組みをして、顎をさすりながら反省の弁を述べていた。
 地震などで地面が揺れると一時的に地盤が緩んで、一面が水浸しになるのは、信濃川が運んできた土砂が堆積してできた新潟市のような土地で起こりやすい、後に液状化として知られるようになった現象だった。父に言われてバケツの中でサボテン用の砂を何度も洗ったことのある春生には、よく理解できる現象だった。
 地震当日の給食は、大半が手つかずだったので、学校の向かいにあるがんセンターの食事に活用できるよう寄付したと言っていた。

 地震後、中学の旧来の木造校舎のほとんどが使用できなくなって、使える校舎だけで二部授業になり、やがて校庭に急造のプレハブ教室が建てられた。その教室で、担任の先生は、ある日の放課後の自由時間に、自分の教科外の音楽の長調や短調の記号とハニホヘトイロの名前の覚え方を板書して教えてくれた。音楽は知識部分も春生が苦手とするところだったが、どのように覚えればいいのか方向付けられたのは大きかった。
 先生は、また別の日に、
 「英語の歌を歌えるようにしておくと何かの時に役に立つぞ」と言って、「マイ・ボニー」の原詞を板書してその意味と歌い方も教えてくれた。それから少し経って、ビートルズが歌う「マイ・ボニー」がラジオなどで流されるようになった。先生は、
 「俺が教室で教えたからビートルズも歌い出したんだ」と笑っていた。
 ビートルズは、既にクラスの同級生の間で話題になり始めていた。彼らの曲を聞いて、春生もそのグループに関心を持つようになっていた。当時、家で購読していた映画雑誌などにも彼らの写真が散見されるようになっていた。

 この年の秋に、東京オリンピックが開催された。家では、夜に中継された女子バレーボールの決勝などを家族で見守った。中学では、体育以外の授業時間もかなり割いて、皆でオリンピックのテレビ中継を見た。特に柔道などの人気競技のテレビ中継は、いくつかのクラスが合同で、まだ使用可能だった木造校舎の図書館で見た。注目された陸上男子百メートルの優勝記録はアメリカのボブ・ヘイズの10秒0だったが、彼は準決勝で追風参考記録ながら9秒9を出して、10秒の壁が破られる時が迫っていることを実感させた。実際に9秒台の公認記録が出たのは四年後の一九六八年、メキシコ・オリンピックの時で、やはりアメリカのジム・ハインズの9秒95だった。

 その頃、プレハブ校舎で、同級生の女子が春生とすれ違いざまに口元に薄笑いを浮かべて、突然、
 「あんたのお父さんはスケベ親父だね」という言葉をぶつけてきた。春生はとっさに苦笑するしかなかったが、思い直してすぐに追いかけて、なぜそんなことを言うのか聞くと、
 「うちの母さんが飲み屋をやっているんだけど、そこで、時々仲間ときていつも猥談をしているお客さんがいて、この間、自分の子供の話をしていたんで、学校のことを聞いたら、私の同級生だと分かったんだって。でも、あんたのお父さんは、いつもイヤらしい話ばかりしているんだって」と、笑いながら説明した。
 その説明で春生も笑ってしまったが、確かに父の書棚には「大人の本」が何冊かあった。それに、父は、毎年大晦日にテレビで「紅白歌合戦」を家族と一緒に見ていて、ペギー葉山が出てくると必ず脳内スイッチが入ってしまい、いつどこで仕入れた話なのか、
 〈彼女が衣装の下に入れていた胸パッドが、公演が終わって楽屋に戻ったら背中にずれていたそうだ〉と、実際はもっと卑近な言葉で、嬉しそうに話すのが恒例になっていた。家族の忍耐は、沢木家でテレビを入れた当初から、ペギー葉山が「紅白歌合戦」に出なくなるまで続いたのだった。
 同級生の女子が言う「イヤらしい話」はそんなものとは違うのだろうが、「スケベ親父」という言葉は、特に母には聞かせられないと思った。ただ、
 「同級生のお母さんが飲み屋をやっていて、そこに家のお父さんが来ていたらしいよ」
とだけ伝えておいた。母は、
 「ふーん」
と言って、春生の顔を見て少し考えて、それ以上は何も聞かなかった。

 本は、中学時代から図書館で借りて読むことはほとんどなくなり、正月などに不定期に入るお金でその時々の関心が向くまま、太宰治、ゲーテ、魯迅、ルソーなどを叢書的な文学全集の一冊や文庫本を買って読んでいた。マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』は、その頃にリバイバル上映されて話題になっていたので、春生はクラスの女友達と見に行った。母も、
 「前に見たことがある映画だけど、良かったのでもう一回見たい」と言うので、三人で一緒に見に行った。母は最初から「離れて見る」と言っていたが、劇場が満員だったので、結果的にも、春生たちから離れたところにようやく空席を一つ見つけ、そこで映画を見ていた。
 その直後に春生は三巻の原作本を買って、母と順番に読んだ。春生は一回通読後、映画とは違うところが多くさまざまな発見があって面白かったので、すぐに再読に入った。読後、さらに三読目に取りかかったら、母から「そういう読み方はやめなさい」と言われ、三回目を読み終えたところでやめた。ちなみに母は、『風と共に去りぬ』の他にも『ウエストサイド物語』の印象が強かったらしく、特にトニー役の俳優が好きで、その後どんな映画に出ているのかを知りたがっていた。
 父母の書棚に入っている本も相当読んだ。仙花紙版の『夏目漱石全集』のかなりの部分もこの頃に読んだ。『美徳のよろめき』や『鏡子の家』も、『敦煌』や『楼蘭』も、『楢山節考』や『駅前旅館』、『おはん』などもそうで、いずれも発行当時話題になった本だから家にあったのだろう。これらは単行本で読んで、ほとんどが今でも春生の書棚に並んでいる。吉川英治の『宮本武蔵』『親鸞』などは文庫本で読んだ。これらはたぶん、父が読んだ本だった。『親鸞』は、たまたまその時読んでいたので、中学の夏か冬の宿題の読書感想文に、ちょっとそぐわないかなと思いながら、書いて提出したことがあった。

 川端町の家では春生の同級生が来て、切手の交換などをしたことがあるが、兄が高校に入ってからは、兄の同級生が家に遊びに来ることが時々あった。兄の新たな同級生の一人は、野球部の経験でもあったのか、すぐ近くの、車があまり入らない銭湯脇の道路でキャッチボールをすることがあった。兄弟のグローブ二つと、その後買ってもらっていた共有のキャッチャーミット一つがあったので、複数の同級生が来ていてもボール回しはできた。あるときは、春生も入れてもらって、しゃがんで構える兄の同級生に向かってボールを投げた。春生は体力テストなどで遠投が全然駄目なのは自覚していたが、一方で、短距離なら自分が結構コントロールがいいように思えた。全力で投げると、キャッチャーは、ボールを受けた位置から瞬間的にミットをわずかに動かして、「お、ナイス・ボール!」と言ってくれた。
 兄は、高校で野球好きな友達が多くできたようだ。春生は、別の時にも一緒に野球をやったことがあった。どういういきさつでだったか、どこかの公園か広場だったが、鐘楼のような建物のそばだった記憶があるので、あるいはお寺の境内だったかもしれない。と言っても、彼らも思いつきで始めたので、手元に野球道具があったわけではなく、バットが一本に、ゴムボールのようなものを素手で投げあい、チームも春生も入れて数人ずつ二つに分かれていただけだった。その時のゲームで覚えているのはこの一シーンのみだ。兄は一塁に出塁していた。そして、次打者が内野フライを打って直接キャッチされたのだが、その間に兄は二塁に進んで、余裕の顔でベースの上に立っていた。春生は、〈マズい〉と思ったが、すでに相手のグループも、兄を指さして、「ボール、ボール!」と声をかけて二塁に投げさせ、アウトにした。兄は驚いていたが、ルールを説明されて、引き下がるしかなかった。チェンジになったときに、兄が、恥ずかしさもあったのか大声で、「自分と同じで弟も野球のルールをほとんど知らないので、教えてやってくれ」と皆に頼んでいた。春生は、内心で、〈いやいや、あれぐらいのルールなら知っているよ〉とつぶやいていた。逆に、兄が、それぐらいのルールも知らなかったのが不思議だった。小中学校でいくらでも野球をやる機会があったし、毎年、シーズン中のテレビでは、夜はプロ野球のジャイアンツ中継が毎日あった時代だ。春生はだいたいのルールをテレビ中継などで学んだのだが、兄も同じぐらいテレビを見ていたのに、ルールはあまり分かっていなかったようだ。確かに小学校時代に野球を砂っ原でやっていた時代は、フライを捕られた時に進塁した走者の扱いは曖昧だったかもしれない。
 しかし、春生も、高校時代に何かのきっかけで野球の話になり、同級生に、
 「ライトやレフトは、守る方から見て言うのか、打つ方から見て言うのか」と聞いたことがあった。同級生は春生に答えた後、
 「そんなことも知らないって、信じられないな」と言った。「ショートってどこのことを言うの?」とまでは聞きにくかったが、確かに、確認する機会はいくらでもあったのだ。

 兄の秋生には、高校一年時から家庭教師がついていた。翌年、一家は白山浦へ転居することになったが、その家庭教師に継続して依頼した。その家庭教師が改めて転居後の住所に訪ねてきた時、無事に探し当てられるか心配していた母が喜んでいたことがあった。だから、兄がこの家庭教師に教わったのは、たぶん高校一年から二年ぐらいまでの二年間ぐらいだった。
 その人は新潟大学の学生で、無口だったがいつもにこにこしていて、熱心だった。自分の受験で使った参考書などを兄に譲り渡して、教えるのに使っていたらしい。中学生の春生にも、
 「授業で分からないことがあったら何でも聞いてください。いつでも教えますよ」と丁寧な口調で言ってくれたが、春生は特に質問することはなかった。
 彼はまた、高校の美術部に入っていた兄に、大学美術部のモデル写生会に参加してみないかという話を持ってきてくれた。兄も乗り気だったが、その後、ヌードモデルの場合もあるので高校生が参加するのはどうかという懸念が、たぶん大学の方から出たようで、いつの間にか話が立ち消えになってしまった。
 それからしばらくして、その家庭教師の人は来なくなった。
 「秋生が大学を受験しないということを聞いて、教える気をなくしたみたいだ」と母が言っていた。春生はそういうこともありうるとは思ったが、真相は分からない。白山浦の社宅での話だったから、兄が高校二年生の終り頃だったはずだ。

 春生が中学三年生、兄が高校三年生になるとき、父が今度は県央の小さな町の支店責任者に転勤になった。しかし、それぞれが就職と高校の受験を控えていた秋生と春生は新潟市内の民間アパートに一時的に移り、父だけが転勤先に単身赴任し、母はその間を必要に応じて犬を連れて随時行き来することになった。兄弟にとっては市内で五回目の転居だった。この形で十ヵ月近く暮らした。
 民間アパートは春生の中学の校区外にあったので、越境通学にうるさい教育委員会から照会がきた。三年前に郊外から市の中心部に転居したときも、中学三年だった兄がバスで通い続けて、結果的に越境通学になったが、当時、そのようなことは特に問題にされなかった。しかし、今回は行政の方針が厳しくなっていて、事情が認められなければ春生は中学三年の途中でも転校せざるを得なくなる可能性があった。その説明のために母が出頭する際には春生もついていって、市役所の教育委員会の部屋に入っていく母を廊下で見送った。すぐに退出してきた母は、
「情況を説明したら『ああ、そうですか』と簡単に認めてくれた」と笑顔で言った。高校受験が近いし、家を建てる予定もあるのでそれまで転校はさせたくないと申し出て認められたのだった。
 そのアパートは木造の二階建てで、借りたのは一階の六畳と八畳の二間続きの部屋だった。借りるときに、時々母が来るときは犬も連れてくることがある、ということを大家さんから特別に認めてもらっていた。共通の通路で靴を脱いで部屋に上がる形式で、トイレと風呂は共同だった。その場所は一家が市内で最初に住んだ信濃川の右岸の「昭和橋の社宅」に近いところにあった。かつて魚取りで遊びに来た水田地帯だったが、それから七、八年後のこの頃、一帯はすでに新興の住宅地に急速に変容しつつあった。
 アパートでの生活は、母が来ているときは母に全面的に世話をしてもらったが、兄弟だけの時は炊事や掃除などはお互いに分担するという約束だった。しかし、最初そのような形で始まった共同生活も、兄の帰宅が不規則だったので、かなり早いうちに、特に共同生活の中心になる炊事とその後片付けのほとんどが春生の仕事になった。

 そのアパートの壁に張った二枚の木炭画を思い出す。描かれたのはアグリッパの石膏像とミロのヴィーナスの石膏胸像だった。ともに、兄が、所属していた高校の美術部で描いたデッサンで、兄の本格的な大判のデッサンを見るのはその時が初めてだったが、一目で「うまい!」と思えるぐらいの見事なできばえだった。兄も得意だったので張り出したのだろう。立体的な奥行きを正確に描き、存在感があった。難を言えば、手を加えすぎて画面全体が濃いめでやや暗いことだけだった。
 ヴィーナスの胸像を前面から描いた木炭画には、ヴィーナスの首から肩にかけて背面の僧帽筋も鎖骨の上に見えるように描かれているのだが、その僧帽筋について、母から、
 「中年女性の脂肪がついた体型みたい。若い女性では肩にそんなに肉がつかないんじゃない?」
と、実感からの異論が出た。以前、ミロのヴィーナス像を写真から模写したことがある春生が、
 「いや、原型のヴィーナス像がそうなっているよ」
と言い、秋生も、
 「むしろ女性の健康な若々しさじゃないかな」
と反論した。
 「そうかねえ」と、母はあまり納得がいかない様子だった。
 絵では兄弟二人とも小中学校時代に賞をよくもらっていた。春生も中学では兄の影響で一度は美術部に属したこともあったが、しかし、その頃にはもう美術の授業以外で絵を描くことがほとんどなくなり、時々兄弟で話題にするぐらいだった。それでも、春生が学校の課題で描いた版画の下絵や自画像などを兄から褒められることもあり、描き方や見方について、そして細部についての指摘も参考になることが多かった。

 しかし、そのような平和な日々だけではなかった。
 アパートの風呂は共同風呂だったが、いつもそれほど混んではいない。兄と二人しか入っていないとき、春生が髪をシャンプーで洗いながら、泡だった髪を梳いて自分の櫛の汚れを取っていた。いつか母から教わった方法だったが、それを黙ってみていた兄が、直後に自分の櫛を出して、
 「これも洗ってくれないか!」と、事実上の命令口調で言ってきた。
 今までどうしていたのか。秋生が櫛を洗ったことがなく使いっ放しできたのなら、どうしてそのままにしておかず、今さら人に頼むのか。櫛を洗ったことがあるなら、どうして自分で洗わず、今さら人に頼むのか。どちらにしても人にやらせるのはおかしい。秋生は、高校で長髪が解禁になってから、伸ばした髪に整髪料をつけていた。兄とはいえ、人の、しかも整髪料の付いた、たぶん使い放しで汚れた櫛を、自分の洗い終えた髪で梳くのは、春生にとって不快そのものだった。しかし、子供の頃から秋生の言うことに逆らえばいつでも喧嘩になってきた。今でもその危険性があるのは確かなので、黙って受け取った。自分の櫛ぐらい自分で洗え、と思いながら、無言で梳いて、無言で返した。兄も黙って受け取ったから、少なくとも春生の怒りは伝わったのだろう。春生は、自分の髪をもう一回念入りに洗い始めた。

 母が来ていたある休みの朝、アパートの共同作業で外構の清掃と消毒を行っていた母たちアパート住民の会話が外から聞こえていた。春生たちは室内でまだ寝ていたが、兄が突然起き上がってガラッと掃き出し窓を開け、アパート周囲の溝を清掃中の母に向かって、
 「お母さん、うるさい!」と大声で怒鳴った。「何をやっているんだ! みんなまだ寝ているんだ!」
 そして、トイレに行くため通路の引き戸を音を立てて締めて出て行った。
 兄が戻ってきたとき、春生が、
 「自分の方がよほどうるさいじゃないか」
と批判したら、兄は、
 「何やっ!」
と怒り、寝ていた春生の胸元をつかんで引き起こし、春生の顔を拳(こぶし)で殴った。
 アパート住民の各戸の共同作業なので、一家からは、母だけが起きて参加し、兄弟はまだ寝ていた。時間的には日曜朝の八時頃だった。秋生は住民の共同作業があることを知らなかったか、そういうものを理解していなかった。そもそも母が前日から来ていたのはそのためだったことも知らなかったのだろう。しかも、外の清掃中の話し声が「うるさい!」と言うほどに聞こえていたのに、それが住民共同の清掃作業だと理解すらしなかった。唯一確かなのは、秋生の言葉も行動も暴力そのものだったことだ。
 子供時代の取っ組み合いの兄弟喧嘩も、理不尽な言いがかりで始まり理不尽な暴力で終わることがほとんどだった。兄がどういう人間か分かってから、春生はそうならぬよう常に警戒していたのだが、この時はそれとは全く次元が違う、まさに一方的なむき出しの「暴力」そのものだった。殴られた左顎が、それから何日も痛みが残った。
 もしも家族に嘘や脅しを常用し、時として暴力を振るう者がいたら、その人間は家族としては失格である。とうてい、一緒に暮らすことはできない。春生は既に小学生の時に秋生の横暴に充分に懲りていたが、この時ほど彼を嫌悪し軽蔑したことはなかった。この後、春生は一年近く彼と口を利かなかった。できあがった家に転居するのに、祖母が手伝いに来てくれたので、その時は祖母の手前もあり、やむなく再び兄と口を利くしかなかった。
 秋生は、言動が明らかに暴力的で、何かというとすぐに言葉を荒げるところはほとんど変わらなかった。春生は子供の頃から兄の暴力への警戒感を持ち続けてきたが、家族も秋生を次第に警戒してほとんどほったらかしにするようになっていたので、結果として彼は、家庭内に存在するだけのただ粗暴でやっかいな人間でしかなかった。

 秋生は小さい頃から内蔵が弱かった。家庭内では、「兄は皮膚は強いが内臓が弱い。弟は内臓は強いが皮膚が弱い」と対句表現をされていた。秋生はそのため栄養が偏りがちだったが、大きくなって、特にこのアパートに住んだ頃から物事を面倒くさがる傾向が顕著になった。それはおそらく父が単身赴任し、母が父と子供たちの間を往復するようになり、親の不在が多くなったことの反映だっただろう。食事にすら手間をかけるのを面倒くさがる秋生の健康を気遣って、母は、魚などの骨を取って食べやすいようにし、食卓に出してやっていた。そのような食生活が、彼が結婚するまで続いていた。世話焼きの母にそれほど依存していた秋生が、その母への反感を持ち続けていることが、春生には全く理解できなかった。

 秋生には絵の才能は確かにあった。抽象画は上手いかどうか判断がむずかしいし、彼が、岡本太郎ばりに捻れた粘土のような手を二つ描いていたことはあったが、抽象画にはまだ距離を置いていた。一方で、一般的に具象画はわかりやすく、画力の尺度にもなる。兄は写生画や具象画で目の前にある事物をリアルに描くという点が圧倒的に優れていた。高校時代の美術部での作品は顧問教師にもかなり褒められていたようだ。
 秋生は、具象画以外にも、デザイン面でも能力はあったのだろう。当時、高校の美術部で確か創部何年とかの記念で、部のバッジを製作する話があったらしく、その図柄を兄が一生懸命に考えていた。
 だいぶ経って、兄が得意になって見せてくれたのは、兄のデザインが具体化した金属製のバッジだった。確かに、横広にバラの赤い花と緑の葉が白い縁取りで単純化された図案が具現化されていた。後は良く覚えていないが、校名の略称か、美術部の略称かが付いていたと思う。これは、図案が完成したときに兄が春生に見せて説明していた作品だった。できあがったバッジを兄はもちろん誇らしそうにしていたが、春生も非常にきれいな出来だと思った。
 しかし、高校の三年時には油絵で少し大きめのカンバスに海岸の岩に寄せる波を描くのに試行錯誤して、最後は完成を放棄してしまった。岩々の間の波の高さを変えて水の動きを表そうとして苦労したようで、顧問から、
 「選んだ題材が難し過ぎた」と言われたらしい。父の胸像も粘土で作りかけて途中で投げ出してしまった。そのあたりで壁に突き当たったのか、進学をあきらめて気が抜けてしまったのかは、分からない。結局、秋生には、才能がどれだけ通用するかの前に、作品の完成に向けてどこまで根気よく努力していけるのか不明の要素はあったようだ。当初希望していた美大・芸大の入試やカリキュラムにも、果たして兄の能力で通用したかどうかも不明だった。特に国語以外の一般教科の成績には最初から自信がなくて、結局本人が大学受験しないと決めたように、春生には見えた。

 その頃の秋生の話では、父は、
 「法学部でなければ大学進学は認めない」と秋生の大学進学に条件をつけたようで、それが大学受験を諦めた原因になったようだが、父がどれだけの考えがあって条件を付けたのか分からないし、秋生の能力をどのように見積もっていたのかも不明である。たぶん、かつての秋生の高校受験の時と同じく、秋生の能力とはかけ離れて、親としてかなり見栄を張ったところもあったのだろうし、「法学部はツブシがきく」という俗説に影響されてもいたようだ。
 秋生が大学進学を諦めたのは、春生から見ると、それだけ成績が悪かったのだから仕方がないと思えたが、兄の内面ではやはり大きな挫折だったのかもしれない。
 仮に、秋生が当時、それだけ大学へ行きたかったのなら、単純に、そのために努力すればよかったのだ。しかし、絵が好きで得意だったから芸術系大学へ入れたかというと、少子化で大学全入に近づいた後の時代でさえ、芸術系の倍率はきわめて高い。芸術系は、「ツブシ」がきかないにもかかわらず、常に法学部よりも難しくあり続けてきた。ベビーブーム世代の当時ならなおのことであって、甘い考えと言わざるを得ない。秋生がそれに見合うぐらいに良く勉強していたとか、また父の方針に反発していたとかは、春生は聞いたことも見たこともない。その時そうしなかったのは、後に自ら言うほどには、当時の自身の勉学意欲、進学意欲が強くなかったのだ、としか言いようがない。
 そのアパートに住んでいた間に兄の就職が決まった。それは父の勤めている会社だった。その就職内定に父が関与したかどうかは、春生の耳には何の情報も入ってこなかった。そのアパートから転居する直前、一晩、兄と二人きりで何かのきっかけで話し合っているときに、春生は、〈きちんとした対人関係を前提として成立するその会社の仕事は、兄の性格に合わないと思う〉と直言したりもした。どんなまじめな話でも兄の気分によっては暴力的に展開する危険性が常にあったが、就職が決定した直後だったこともあるのか、その時兄は珍しく聞く耳を持っていた。そして、兄の性格の欠点について話題にしていたせいもあって、兄からは、泣きながら、
 「これまで至らない兄だった」と謝罪があった。
 この後、おそらく、彼が就職してから結婚するまでの数年間が、兄弟間が比較的安定して穏やかに推移した唯一の期間だった。

 春生は、兄の作品としては、高校卒業間際ぐらいにシクラメンを水彩で描いた色紙を一枚だけ持っている。好きな絵だったので、大学進学で東京に出るときに頼んでもらい受けたものだ。小品だが、その頃の兄の絵の中で最良の作品の一つだと思う。花びらの反りが軽やかで、軽く描いたふうの味わいがあった。最近は全体に花の部分が色あせてしまい、その分、葉の緑が以前に増して重く感じられるようになったが、今でも廊下や部屋に飾ることがある。

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