AIの時代だからこそ教養を

ChatGPTの記事が世間を騒がせるようになって、リスキリングという言葉を見ることが減ったように感じます。
AIを使いこなせれば学ぶ必要はないなんて記事も目にしましたから、そもそも学ぶことが嫌いな人にとっては願ったり叶ったりなのかもしれませんが。

リスキリングで何を学ぶべきか、という問に、僕は一貫して「リベラルアーツ」と答えてきました。
リスキリングには、「ポータブルスキル」と「テクニカルスキル」があることも以前にも記しました。
このうち重要なのはポータブルスキルです。これは文字通りどこでも必要とされる能力で、論理的思考力や問題発見能力などを指します。

そして、こうした力を身につけるためには、リベラルアーツアーツが不可欠です。

ところで、リベラルアーツは学問の基礎で、決して覚えるものではありません。なぜならリベラルアーツを学び、‘身につける’のは、「考え方」だからです。

リベラルアーツの話をするとよくセットで話されるというか、混同されがちなものに、「教養」という言葉があります。

教養の厳密な意味はさておき、一般的には幅広い知識を指すことが多いです。例えば、歴史について詳しい人などは、一般的には「教養がある」と言われます。

しかし僕は少し違うように思います。

ここでちょっとイジワルな話をしたいと思います。

例えば、歴史の本は定期的に売れるそうで、大河ドラマなどの影響がありますが、その他にも、その時々の世の中の流れに合った史実や人物などがあるそうです。
ある程度の年齢になると、人の興味は変わりますし、向学心も出てきます。こうした人に、実は歴史の本は売りやすいのだとか。
なぜなら、本を読めば史実や背景を知ることができます。興味を持って読んでいるので、それなりに覚えられます。覚えたことを話すのは楽しいものです。人からは‘それなりに’尊敬もされます。

教養人の‘一丁上がり’というわけです。

しかしこの人は、本当に「教養人」と言えるのでしょうか。

世の中には、‘物知り’という人はたくさんいます。なんなら、駅名や国名をたくさん知っている子供だっています。しかし、こうした人を「教養人」とは呼びません。

ちなみに教養は、辞書では以下のように説明されています。

[1] 教え育てること。
[2]㋐学問、幅広い知識、精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の豊かさ、物事に対する理解力。また、その手段としての学問・芸術・宗教などの精神活動。㋑社会生活を営む上で必要な文化に関する広い知識。                      (大辞泉)

この説明からすると、人を教養人たらしめるには、「創造的活力や心の豊かさ、理解力、精神活動」が必要になります。
やはり単なる‘物知り’は教養人には当てはまりませんね。

さて、僕はよく「演繹」して考えるということを話します。日本人がはっきりした意見を言わないことや、戦略が苦手なこと、また今問題とされている変革を起こせないといったことは、演繹が苦手なことが原因と言われています。

例えは日本で多く見られる、風習や慣例による判断は帰納法の考え方です。また『菊と刀』で記された「恥の文化」というのも慣例ですから帰納法です。
これが必ずしもいけないわけではありません。むしろ日本的な美徳はこうした特徴によるものではないかと思います。

ただし、物事の本質を見極めたり、将来の戦略を立てる、イノベーションを導くなどといったときは、演繹法で考える必要があると考えます。

僕は単なる‘物知り’を、「教養人」に成長させる要因がここにあると考えます。
つまり、‘物知り’の持つ知識、これを情報の集合体だとしたとき、リベラルアーツは、この知識を使って、目の前のことを演繹できることで、人は「教養人」になれるのではないでしょうか。

そして、このための「考える力」が、「リベラルアーツ」だと考えます。

ChatGPTは、一時期の熱狂的な話題が落ち着き、使い方が問題だという話題に移ってきました。
僕はこの「使い方」を左右するのが「教養」であり、不可欠な能力こそ「リベラルアーツ」だと考えています。

僕は例えば、シンギュラリティのような恐怖感を持つ必要はないと思っていますが、それでもこれから一定の分野で、AIが人の仕事を代替することは確実です。 
そうした中で、結局、AIを道具として使えるかどうかは、考える力、そして教養の有無だと感じています。

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