賢くなれば他人の手は要らないと思っていた

幼い頃から、私は大人のいうことを聞きすぎる子供だった。

自分が扱いにくい子だと勘づいていたし、大人に助けてもらった経験が多かったから、次第に周りの友達への警戒心が強くなった。

しかし、それでもそばにいてくれた数人の友達には恵まれており、自分なりに平穏な生活ができていると思っている。

大人は、成績がいいと褒めてくれる。

外を走り回って日焼けするより、静かに勉強するほうが性に合っていたのもあり、私は賢くなろうとした。

成績が上がるととても楽しい気分になる。

目に見える形で数字が上がるとまずは自分のなかで達成感があるし、つづいて周りの友達に羨ましがられ、学校・塾・家で大人たちに褒められまくる。

実際、上手くいかないこともあったけど、それでも上を目指せば周りの環境も変わるし、どんどん知識が溜まっていく。

知識が溜まれば、自分の感情だってコントロールできるようになるし、楽になれる。誤解を恐れずにいうならば、もっと威張れる。

そう思った私は、多分きっと間違いだったのだろう。

自分の頭のなかに沢山解決策があっても、誰かに話を聞いてほしいと思うものと気づいたからだ。

プライドが邪魔をして、本音を打ち明けられないことがなんと多いことか。

こうやって書くことだって私の唯一といっていい武器だったのに、次第に遠ざけるようになっていった。

書く内容がなかったり、単純に書く気分じゃなかったりすることもあるけど、本当は他人に私の話を聞いてほしくなったんじゃないか。

ただ書いて自分のもとにとどめておくんじゃなくて、感じたことをシェアする。

手を動かすんじゃなくて、口を動かす。
PCの画面を見つめるんじゃなくて、たまに逸らしながらでも誰かと視線を合わせて話したい。

あと、賢くなれば知識は溜まるけど、経験にはなってないのかもしれないとも思う。

座学をきちんとやれば自動的に身につく”知識”とちがって、”経験”は自分で選び取った替えのきかない行動に、制御困難な感情が結びついてできるものだから。

感情を通過すると、リアルさが増す。自分事になる。

誰かにおのずとシェアしたくなるようなわくわくやドキンドキンを味わうのが、楽しくて仕方なくなる。

そんな日を夢見て、現実に引き戻されると、ただ賢いだけじゃほんとは賢くないのかもという就活時代での学びと繋がったことに気づいた。

どんなに才能のある人でも、ひとりでは生きられないし、びっくりするくらい馬鹿げた悩みとか相手からのツッコミ覚悟でも話したいことがあるだろう。

私は、まだ自分を全然認められない。

正直じゃないし、無駄な劣等感がまだまだあふれ出てくるから。

不器用すぎて、他人と比べすぎて、いつも心身のどこかが不健康な気がする。

だけどいつか、幻想と戦うのをやめて、自分のことを何も恥ずかしくないし何もおかしくないって心から認められるようになりたい。

小さな望みしか持てない私も、それを謙虚だねと褒めてくれる人のことをまだ信じきれない私も。

近い未来のどこかで。


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