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”にわか”な私の推し活について考えてみた

ディズニーと韓国アイドルとエッセイ。
そのどれもが私の好きなもので、毎日少しずつでも関われていることに、私は誇りを感じている。

だけど、最近疑問を抱くようになった。
私はそのすべてをめちゃくちゃずっと好きなのか。
好きじゃないといけないのか。



推し活は楽しい。
推しはいつ眺めても素敵だし、心の支えだし、何度助けられたかわからない。

だけど、これだけあふれかえった情報と仕事の山の中に住んでいる私たちが、推しだけに集中するのは難しくもある。

いつ解禁されるかとドキドキ胸を高まらせるかわりに、焦りながらスマホを数秒ごとに開く。
楽しさや喜びを周りに共有するかわりに、SNSの反応を見て落胆したり怒ったりする。

そういった日を重ねるごとに、推し活ってこんな楽しくないものだっけ?私、何のために頑張ってるんだろうという虚しい気持ちになる。

”本当は疲れているから寝たいけど、推しが来るかもしれないから寝ない”
その選択は、誰かに強制されているわけではなく紛れもない自分だけのものなはずなのに、心がそれをわかろうとしないのだ。

現実と夢の中をずっと行き来しているような感覚は実に気持ちが良く、思わずリピートしてしまうけれど、それは時に体力も精神力も奪いかねない危険な行為でもあるのかもしれない。



推すのを辞めたいわけじゃない。
ましてやそれを誰かに勧めたいわけでもない。

世の中にはこれだけ素敵なものや人がたくさん存在するのだから、好きになったり応援したくなるのはごく自然で、とてもすごいことだと思う。

だけど、私は誰かに縛られてその人を好きになったわけでも、今好きでいるわけでもない。

誰かを好きな気持ちをあえて形にするならば、きっと伸縮性がバツグンで触れたら温度や音色が一瞬で変わっていくようなものだろう。


よく考えてみれば、推しはいつも心配してくれている。
ご飯はちゃんと食べましたか?健康に過ごしていますか?と。

今死んだら推しには確実に会えなくなるのだ。
それなら、私は認知されるのを夢見て画面にかじりつく女より、推しの言うことを守ってずっと健康で幸せに生きるオタクでいたい。

そう決めたなら、私がやることはただひとつ。

推しの配信を見るのはやめて、もやもやをnoteに書き記すこと。
言語化してすっきりして、私が私を取り戻すこの時間が好きだから。

また明日も元気に息ができるように、私は今書いています。


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