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「わからない」と遊べ

瀬戸内海周遊を終えて、そのまま我がホームでもある呑底に向かう。
バラバラと友達が集まり、ディスカッションが始まる。
その中でホロ酔いだったのでうろ覚えだが「わからないがあるから、楽しい」的な話になった。

仕事に夢中になれている面々なので偏りがあるが、「わからない」からこそ、それを「知りたくなる」。すごく当たり前のことを言っているが、この「わからない→知りたい=好奇心」という捉え方をしている。僕らは常に知りたがっている。こういう仕事の人たちや研究者は解明がしたい。世界の秘密を紐解きたい。

採用面接を繰り返す中で、うちにとってどういう働きがあって、どんな未来を作るべきかをずっと考え込んでしまう。香川で見聞きしたものも、どういう可能性があるのかを考え込んでしまう。それ以外にも案件の数だけ、どうすべきかを考え続けている。つまり、生きてる中で僕の中には10以上の「わからない」があり、同じ数だけの「知りたい、わかりたい」があるわけだ。

駅のホームで腕を組み、うーむと唸っているとプワァーと音を鳴らして乗るべき特急が目の前で走り去った。わかろうとする意識の外で電車は離発着を終えている。思考はスッと浮き世を離れて中空を舞う。時間通りの電車に乗るより、体がこの思考を尊重したと捉えてみた。この問いの方が予定通りの電車に乗るより、よっぽど大事だよ。ってことか。

逆に悩み考え続けることは「苦」であると捉えるケースだってある。
その頻度は少なくとも僕は少ない。できるだけ考えず悩まず生きることの方が楽なのはもちろんわかるが仕事柄、その点、麻痺している。考えないのは土日くらいで期末が近くこの時期には、土曜日あたりは会社のことを1日考えている。つまり7日のうち、6日は悩んでいる人だということだ。

僕たちは悩みの中に生きている。その「わからない」を抱きかかえて、あれやこれや引き出しをあけたり、絵を描いたり、その真実にたどり着こうとしている。頭の中では無数のパズルが置かれており、ルービックキューブを回したり、知恵の輪を解こうとしている。「わかった!」という真実に触れる体験を知っているから病みつきになるのかもしれない。

仕事を楽しんでる人を思い返したとき、「なんか忙しそうだね」と言われがちだ。僕もまさにそうなんだけど、「いや、楽しいっすよ」って答える。不可思議な疑問と遊ぶ。解き方のわからないパズルと向き合う。「わからない」と優雅にダンスをするのだ。楽しんでどこかの瞬間にカチャリと扉が開いたりする。その先の素晴らしき真実に最初に触れるのは自分なのだから、僕はわからないを止められない。

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。