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給食、体育、図工が好き!な理由

仕事の関係で「教育」や「学び」について、調べることが多い。
子どもの頃は、勉強って嫌なものの一つでしかなくて、掃除当番くらい嫌だった。逆に給食や体育、図工は大好きで、それっと明確に何に繋がるかが子どもながらに理解していたのかもしれないと思った。

そんな壮大なことではなくて、給食=お腹いっぱいになる、体育=動くの楽しい、図工=なんか作れる。本当それだけのことなのに楽しみで仕方なかった。コツコツと努力するイメージではなく、楽しむもの。そういうものっていくら時間や体力や労力を使っても苦にならない。

ただ机に座って受ければいいだけの国語や算数は、なんか退屈でよく本を読むようになってからは、退屈な国語の授業では先の物語を読んだりしていた。それがまだ救いだ。物語は面白いという結果を知ったから。

ただ算数は、何に繋がるのかが明確でなかった。生きてくために必要だから?特に掛け算、割り算以降、日常の何に繋がるのかを見出せない。今も。
子供でも、目の前に横たわる時間を何に投資するかを考えているのかもしれない。何に成就するかもわからない努力は不毛だ。

こういうことは、これを読んでるみんなもある程度、共感できることなんじゃないかと思う。生まれながらの勉強できてた人は違うかもしれない。テトリスぐらいの感じで数式を解いたのかもしれない。そこまでいけば最高の暇つぶしな気もする。

でも、大人になってしっかり教育のことを考えてる人の話を聞くと、考え方がぐっと変わる。今までの教育と僕らのコミュニケーションが悪かっただけなんだと気付かされる。本当シンプルなことで、これをコツコツ頑張ったら、こんな可能性が手に入るよ!こんな楽しいことがあるよ!と教えてくれる。

なんだか、そこまで含めて「教育」なんじゃないかと考えさられた。
こうやって言ってくれたら、俺もっと勉強したかもと思う。
教育は子供に可能性をあたえていくものだ。まずその話からすべきだろう。子供だっていろいろわかってるんだぜ。

だけど、僕が子どもの頃は与えられた教科書を1pずつこなし、これを終えたら何になるのか説明がなく、卒業や受験のためのものとしてしか語られなかった。テスト好きな人いないだろうし、嫌いなテストのために努力するという流れは気が進まないのは大人でも同じだ。

知りたかったのは国語や算数ではなく、これを頑張ったら何ができるのか?だけなきがする。結論が見えないプレゼンは聞いてられない。鉄則頭に結論を示せである。それと同じで手に入るものの話を聞いて、それを手に入れるには?が学習なんだ。これを学べば、これができます。ここまで教えて教育じゃないか。

もう大人になってしまった僕は、それもっと早く知りたかったよ…という事柄があふれている。本来、勉強はポジティブなものだった。コミュニケーションがそれを殺した。今はそれを蘇生するような時代なのかもしれない。

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。