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「学び」は自分の足で

僕は仕事でいろんな人に会う。プロジェクトのために会うのだが、半分以上が結果自分のためになっている。役得というか、その度にどっと打ちのめされることが多い。俺、この人のようなところまで突き詰めているだろうか。全然ダメだぁ〜俺ダメダァって一晩だけなる。

翌朝ケロっとなってるんだけど、このままじゃダメっていう感情はしっかり残っていて、これまでの自分を全て刷新してしまおうとする。なんかそういうことを繰り返している。でも、これにこの差分に気づけなくなると、もう終わるんだろうとも思っている。

「あ…すごいな、いまの」って誰かと話してると必ずある。ふとした一言や、仕草や、佇まいだったりするときもあるんだけど、そういうものを僕は言えない、できないって、なんで今それができた?言えた?とひとりぼっちの時に考えたりする。

それはその人がどういう価値観で構成されているかを観察することで、自分が「おっ」と反応するものって、確実に自分にはないものだったりする。そして、それができたらより自分はいいのにと思っている。そういうものは必ず出会う人ごとにあるのだけど、これはもう生きてる人が教科書みたいなものだなと思う。

こういう仕事というのもあり、僕は人との出会いにいろいろ学ばせてもらうことが多い。でも仕事によっては、そういうことも少ない仕事もあるのだろうと思うと、やはり僕はこの仕事でよかったなぁと思う。会社の中にももちろん学びがあると思うけど、どんどん会いたい人に会いに行けるのは本当に幸せなことである。

と同時に多くの人が僕に無償で時間を提供してくれて話を聞かせてくれているので、何かお返しをと思うけど、この人たちと同様に僕の話を聴きに来た人には真摯に向き合うことを決めている。同じように少しでも僕が与えれる気づきのようなものを提供できればいいなと思っている。

義務教育のせいかわからないけど、学びっていっつも提供されると思ってることが多かったけど、大人になるとそんなことなくて、ぼうっとしてても何も起きないし何も得ることはできない。こちらから学びに向かわなければいけない。欲しいものは自分で取りに行くしかない。学びに向かう姿勢をもっと当たり前にしないとダメだ。

いただいたお金は子どもに本でも買おうかと思ってます。