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映画「哀れなるものたち」を見たこと、そしてモブという人生について

昨日、映画 哀れなるものたち を見た。メンタルつよつよのCoccoみたいだと思った。迷いばかりで、自分がぐらぐらしている臆病者の私にはとても眩しい主人公だった。魂が輝いていて、素晴らしかった。
自分はどこまでもモブだなと思った。
ここ最近はそれがデフォルトなんだけど、少し前までは、自分がモブだなんて感じて生きてこなかったなと思う。自分のことをモブだと思うのは、大人になり社会に染まるという意味では成長なのかもしれまいが、人生を生きる姿勢としては退化のような気がする。それも思い込まされているだけなのかな。
そもそもモブってなんだろうね。

私はオタクなので二次創作を断続的に嗜むのだけど、私が若い頃にはモブっていう概念はまだなかったと思う。今はモブという登場人物が二次創作の世界にある役割を持って出現するようになっている。久々にオタクに復帰してびっくりしたのは、モブという発明だった。男性向けには昔からあったのかもしれないけど。

まぁともかく、いつの間にか私もモブになっていた。モブには重要でない、というニュアンスがあるので、自分がモブである以上、自分の人生がどんなに大変で辛くても、所詮モブの人生、その悩み自体がしょうもない、と感じてしまう。

大体自分がモブかどうかなんて考える必要ないんだ。それ自体ただの幻想で、私は私で、私の人生において私の悩みが全てだ。頭ではわかっていても、もう一つの思考は自分をモブとして扱っていて、それが楽な時もあり、しんどい時もある。

昨日の映画を見終わった後は、そんなに感慨もなかったんだけど、今朝目が覚めた時に、その映画の中で主人公が自分の意志で売春をする場面があるのだけど(そしてその主人公はそれも一つの経験として割り切っていてそこから必要なものは学び、傷ついたり引きずったりいっさいしていなかったのだけど)、なぜか私はそれを思い出してとても傷ついた気持ちになって、驚いた。

私の中の何かが傷ついた感じがした。何が傷ついたのかわからないんだけど、布団の中でしばらくその感覚と一緒にいて、じっとしていました。(ただそれだけ、別にその後何も起こらなかった)

少し前から「モブという生き方」とはなんだろうと考える。
「モブ」という概念はなぜ生まれてきたんだろう。昔からあったにしても、なぜ今になってこんなに自分の心を掴むのだろう。
掘ったら何か発見できそうな気がしている。

人は誰でも自分なりに、これは自分の人生や生き方にとって何か大事なもののような気がする、というセンサーを持っていると思うんだけど、その針が触れる感じがする。

これからも自分の人生という経験と実験を通じて、自分が世界を、自分をどう見るのかの変遷を辿っていきたいと思います。終わり

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