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須賀敦子が歩いた街 7.

ペルージャ

「ドイツに住んでいればさ、ドイツ語も自然と上手になっていくんでしょう?」

日本にいる友人に気軽にこう言われると、心外に思います。外国語の天才なら話は別かもしれませんが、凡人の私にとって、モノゴトはそんなに簡単に進みません。ドイツ語に関する知識ゼロのままドイツに移住して、なんとか「ドイツ語でやっていけそう」と思えるようになるまでの最初の2年間は、先が見えずに本当に大変でした。なんせ、一定レベルの試験に合格しなければ、ドイツ人の配偶者であっても無期限居住許可はおろか、まとまった期間の滞在許可も出ないのですから、ドイツ語が嫌になったからといって途中で投げ出すわけにもいかなかったのです。

[...] ヨーロッパで二番目の夏は、ペルージャの外国人大学に行って、イタリア語を勉強したのだが、そこで、はじめてイタリア語をならうというのに、初級でなく中級に入れてもらった。いきなり中級には入ってはいけないという規則がそのころにはなかったし、語学の初級というものは、どの国の言葉でもおそろしく退屈で、たいていは初級でつづける勇気がくじけてしまう。イタリア語がそうなったらたいへんだと思い、それならちんぷんかんぷんでもいい、あとで努力して追いつく苦労のほうがましだ、というのが私なりの性急な論理であった。

『ミラノ 霧の風景(須賀敦子コレクション)』白水社, 2001年

須賀敦子は、『プロシュッティ先生のパスコリ』というエッセイの中で、こんなことを書いています。これには正直ぶっ飛びました。

取り急ぎ3年間の滞在許可を得るため、私はドイツに来た翌月末から3週間のドイツ語初級集中講座参加して、講座終了後すぐにA1という試験を受験しました。その後、約1年ほど更にタラタラ勉強した後、今度は無期限居住許可の前提条件となっているB1試験受験の準備として、ゲーテ・インスティテュートの2ヶ月の講座を受けることにしました。コース参加前に、クラス振り分けのためのレベル判定テストをオンラインで試験を受けたのですが、その結果、振り分けられた先は、なんと、C1/2というそこでは最上級のコースでした。

「文法から攻めていった結果、筆記試験で思わぬ高得点を叩き出しちゃったみたいで、聞けないし話せないという状態にもかかわらず、上級コースに放りこまれちゃったのよねえ...」

そういえば、大学時代、夏休みにイギリスの語学学校の短期集中英語講座に参加した同級生が、そんなことをブツブツ言ってたっけなあ...。紛れもなく、その何十年か後、私も彼女と同じ道を歩んだようです。これが須賀敦子なら、闘志メラメラで「あとで努力して追いつく苦労のほうがまし」と言ってレベルの高いクラスで猛烈に追い上げていくのでしょうけれど、私にはそんな能力も気力もありません。2週間C1/2コースを受講した結果、「やはり私にはこのレベルは無理です」と先生に直訴して、2つ下のB2/2というコースに編入させてもらいました。まさに須賀敦子とは真逆のこの状態。でも、講座のあと私が受験するのはB1なのですから、これでも十分すぎるわけです。

結果的には、このB2/2というコースで曲がりなりにも頑張ったおかげで、その後受験したB1の試験はそれほど難しく感じませんでした。ただし、どう考えてもあの時の私には、C1/2は無理だった。そう思うと、初めてイタリア語を学ぶのに自らの意志で中級コースに入った須賀敦子は(しかも間違いなく「やり遂げた」に違いありません)、タダモノではない。そう思います。

...なんだか、話がペルージャとは全く違う方向に逸れてしまいました。もう既にたくさん書いてしまったので、最後にペルージャで撮影した写真を並べ、その後、私のこの街に対する印象を一つだけ述べようと思います。

ペルージャは風の街だと思いました。
山の上に築かれたペルージャ旧市街には、細い坂道がウネウネと縦横無尽に走っています。そこをヒューッと風が吹き抜けていくのです。山の下にあるペルージャの駅では全く風が吹いていない日にも、山の旧市街の道をいつも風が走り抜けていた。...そんな記憶が、一番強く残っています。

後記

そして月日は流れました。C1/2のクラスに押し込まれ、チンプンカンプンな授業に日々涙していた私は、猛烈に重い腰を上げて去年受験したC1試験に合格しました。
勉強を始めたのは2020年11月。コロナウィルスが未だに市中を徘徊している状態だったので、語学学校には通わず自宅で1人で勉強することにしました。
しかしながら、この試みはまさに「年寄りの冷や水」だったようで、試験勉強開始後2ヶ月くらい経過した頃に首が動かなくなり、激しい痛みのため全く下を向けなくなりました。その時はさすがに受験を見送ろうと思ったのですが、「ダメだったらもう一度受ければいいから、どんな感じの試験なのか知るためにも気楽に受験してみたら」と夫に励まされ、2021年2月に受験する予定だった試験を翌々月の4月に延期し、記念受験することにしました。しかし予想外にも合格します。これには自分自身が一番驚きました。実は筆記試験の最中に首が猛烈に痛くなり集中できず、「もはやこれまで」と思っていたからです。それにもかかわらず合格した一番の要因は、最も苦手だった口頭試験で満点に近い高得点がついたからでした。実は首を痛めた後、筆記試験の勉強ができなくなってしまった私は、毎晩夫相手にひたすら口頭試験の準備をしていたのです。
日常的にはヤパーニッチュ(Japanitsch = Japanisch+Deutsch)という妙な言語を使用して生活している私は、未だに「話す」のが最も苦手です。首を痛めた時は「もう最悪」と井戸の底まで落ち込んだものですが、もし首を痛めていなければ苦手な口頭試験の準備は後回しにして、これほど熱心に準備することはなかったはずです。その結果、口頭試験で成績を伸ばせず不合格になっていたかもしれません。
そして何よりも「もうこれ以上話せない〜」と椅子から落ちて床に転がる私をその都度助け起こし、励まし、根気よく試験勉強の相手をしてくれた夫の存在なくしては、絶対にC1試験に合格することがなかったと思います。夫には今でも本当に感謝しています。
…それにしても、朝から暗くなるまでぶっ通しで試験という何とも恐ろしいC1試験(2日に分けて試験を行う場合もあるようです)。一度で合格して本当に良かった…。おばあちゃんの私には、あの壮絶な試験をもう一度受験するのは無理。絶対無理。体力的に無理。

(この記事は、2019年7月12日にブログに投稿した記事に後記を書き加えた上で、転載したものです。)