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SNSの息苦しさと、そこに対する答えのようなもの

チョコレートが食べたい。本当に食べたいけどこの時間だし、いや、本題とは全く関係が無い。しかしながら、本題と関係ないにもかかわらずこうやって言葉にしてしまっているということは、間違いなく食べたいということなのだろう。
この欲望が嘘ではないとの確信を得た。

SNSの息苦しさ


所変わって、話したいことは何かというと、最近の息苦しさについてだ。
最近なんだか生きづらいなと感じ始めた。いや、全体的には満足してるし
やりたいこともできてるので、人生そのものに不安があるというわけではないのだけれど。
ツイッターがすごく好きで、1日30回くらいは見てるジャンキーなのだが
なんかツイッター息苦しいな、おい、と思ってしまって少し病んでた。

インフルエンサーと言われる人達とか、一般的な知名度はないけど
発信力があって、考え方も素敵で、そういう人達を多くフォローしてる。
そういう人達の考えが純粋に面白いという話もあるし
自分自身の思考を深めるためのインプット目的でもある。

端的に言うと、イイねの数で比較してしまい、しんどい。
SNSの力で、個人が大きな媒体に依存せず発信できるようになったのは
とっても素敵なことだと思うけど、その環境の元では
その人の価値が、イイね数・フォロワー数という数値で
可視化されてしまうような感覚に陥る。

僕がフォローしてる人たちは、いろんな投稿に数10ファボとか、すぐについていたりする。
それに対して、自分が精魂込めて、面白いだろ、と思って投稿したものが0ファボだったりする。
正直、しんどい。俺って価値ないんだろうか。俺の思考は社会にとって価値のないものなのか。そんな風に思ってしまって、薄っすらとした不安感と解消しようのない焦燥感が胸の奥にこびり付いていた。

誰しも自分には価値があると感じたいはずだし、度合いにはよるだろうけど
他者に承認されたい、みたいな願いはある。

SNSは、自己の承認欲求を満たしてくれる可能性を秘めているけれども
逆に、満たしてくれない可能性も当然ある。
別に承認欲求がある程度あるのは人として当然だろう。
そこが完全に消えたら、もはや社会的な文脈での「人」とは呼べない。
だが、SNSの容赦のないところは、他者が承認されているところを数値を通してまじまじと見せつけてくるところだ。

いつしかそういう発信力のある人と自分を比べて、ファボの数をチェックするようになってる自分に気づいて、言いようの無い無気力感とほんの少しの絶望を感じた。

ツイッターは好きだけれどでも見たくない、そういうアンビバレンスな状態が続いていたし、今もまだ完全に脱し切れたわけでは無いけど
なんとか、なんとか、自分なりの方向性みたいなものは少しずつ、見えてきている。

戦いから降りること、代替不可能性という希望

自分なりに色々思考してみて、「発信力ある人にイイねの数で勝てたら嬉しいか?」と自問自答してみた。そしたら、「そうでもないな」と思った。
まず「勝つ」という表現がいまいちしっくりこない。
勝負してるんだっけ?なんかのコンテスト?そんなわけないでしょう、てな感じで。

まず、別に誰かに勝ちたくて、勝負がしたくて発信してるわけじゃないなと
気づけたのは結構大きい。

じゃあ別に勝負してるわけじゃないのに、どうして人と比べちゃうんだろうなと
考えると、自分には価値があるの?と常に意識の底に淀んだ沼のような意識が沈殿しているのだなと思っている。
ネットに常時接続していると、膨大な数の輝いている人たちの姿を目の当たりにすることになる。
自分より実績も知名度もある人たちの姿をフラッシュのように叩き込まれたら
そりゃ、自分て大したことないなと思ってしまう。

しかしながら、意外と足元を見てみたら、希望は落ちているもんだったりする。というのに気づいた。
例えば
羽生結弦があした死んでも、僕の両親は泣かないだろう。
ゆうこすがあした死んでも、僕の親友は泣かないだろう。
でも僕があした死んだら、きっと泣いてくれるはずだ。
もちろん涙を流す人の数は圧倒的に違うだろうけど、羽生結弦とゆうこすの死が
僕の両親と僕の親友に涙を流させることはできない。
僕は塾で5年間働いていて、そこで、僕と出会って人生が変わった、と言ってくれる生徒が何人かいた。他の人にそれができたのか?いや、その瞬間に、彼らのそばに立ち合えたのは、確かに僕なのだ。大谷翔平でも、どこかのインフルエンサーでもない。

だから、僕が今思うことは、人の価値というのは
影響力を可視化した数値の大きさではなく、時間・空間・遺伝的要素を含めた
代替不可能性にあるのではないか、ということだ。
僕たちが生まれ持った遺伝子、生まれた家庭、育った環境、それはもう変えられない。
だけど、変えられないからこそ、僕たちには価値があるのだ。環境や遺伝的要素を
改変して、他者になりすますことはできないのだから、
誰かの子であり、誰かの親友であるということは、誰にも修正できない、不可逆の事実だ。
つまり、今、ここに確かに存在している、ただその事実だけで、誰かの幸せに
繋がっているはずだし、その繋がりはどこかの誰かが肩代わりすることはできないから、たとえ小さくたって、価値がないなんてことはない。

至近距離にいる人たちからの「ありがとう」は、僕にしか受け取れないギフトなのだ。僕には確かに価値があるのだ。そう思えて、良かった。
まだ完全に、劣等感を払拭するには時間がかかるだろうが、30cmくらいは前進できてるような気がする。

このページにたどり着いた誰かが、少しでも僕と同じ思いから救われたら、こんなに嬉しいことはないけれど、自分の中である程度の決着がついただけでも価値がある。良かった。


今、ピアノの儚いメロディを聴きながらこの文章を綴っていたら、なんだか泣きそうになってしまった。今日はもう限界らしい。明日からまた生きよう。






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