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20年前の焼き鳥の味と、あの子と僕の10年後

風の香りとタレの味

在宅で作業をすることが増えてきて、散歩をする機会が増えた。
家には自転車があるので、少し遠くに行ってもすぐ帰ってこれる。

歩いて散歩するのもそれはそれで、道端の花とか、普段は通り過ぎている
美しさに触れられるのでいい。ただ、自転車の場合は、風を全身に受けるあの感じが、なんとも気持ちいいのだ。

昨日、夕方くらいに、小腹も空いたのでおやつを調達するついでに
散歩に出かけた。いつもは坂の上を周遊しているから、何となく坂の下へ行ってみた。

特に目的地があるわけではなかったけれど、何か、吸い込まれるような感覚で、子供の頃よく通った商店街へと入っていった。
昔は、小さな3F立てのショッピングモールがあって、そこで遊戯王カードなんかをよく買っていたのを思い出した。

入り口から50mくらい進むと、一旦車道になっていて、そこを渡ると
また別の商店街へと続いていく。
2つめの商店街へと入った瞬間、胸に心地の良い苦しさを感じた。
そこには、祖父と通った魚屋と、散歩のたびにおやつを買ってもらっていた焼き鳥屋が、当時の姿のまま、あった。

お腹の中にあった空腹と、散歩をしながら感じていた感傷が、重なった。焼き鳥屋の前で自転車を降りた。

からあげ200gと、つくねタレとニンニク塩を2本ずつ買った。祖父にいつも買ってもらっていたのは、つくねタレとナンコツ塩だった。ほぼ確実に20年ぶりに食べたつくねの味は、あの当時のままだった、かは分からない。さすがに覚えていない。

ただ、その焼き鳥屋のオヤジさんの声は、たしかに聞き覚えがあった、ような気がした。


そのバスの向かう先

今僕は、週に2日、小学生が自分のライフテーマを探すきっかけを与える、探求的学習を提供している塾で、副業的に、お手伝いをしている。

その塾のあるクラスにゆうた君(仮名)という男の子がいた。ゆうた君は、先週の授業でその塾に来るのは最後だった。

彼は、クラスの中では比較的甘えん坊で、授業中に色々と歩き回ったり、スタッフの膝にちょこんと座っていたりした。授業の内容は所々難しい内容があったりして、目を離すとスマホゲームをやっていたりしたことも多かった。

これらそれ自体が悪いとか、そういうわけではない。ただ僕は、せっかく時間を使って来ているのだから、その授業の中で、何か学び取ってほしい、あるいは少しでも、自分で何かを学ぶという癖のようなもの、志の10歩手前くらいのものでいいから、を心の中に育んで欲しかった。

彼も僕によく話しかけてくれた。見守りたい子の1人だった。真剣に目を見て、話しかけたことを覚えている。彼がどこまで、僕の気持ちを受け取ってくれたかはわからないし、塾を辞めた理由もわからないけれど、別れは突然で、思い出を振り返り時間もなかったし、ゆっくりと、彼の今の興味について聞くこともできなかった。

小学生のあの頃、あの教室にいた「ゆうや」という人間を彼は10年後に覚えているのだろうか。

自分が一瞬でも本気の心を向けた相手の心の中に、小さくてもいいから残り続けたいという気持ちと、それは完全に相手次第という道理に挟まれて寂しい気持ちになる。

僕と話したことは忘れても、例えば10年後にどこかで偶然あったときに、つくねタレのように胸の奥に懐かしさを感じてくれたら、僕は嬉しい。


自分の場合は、過去と未来に想いをはせるときには、大体地に足がついていなかったりする。
過去を懐かしんで胸をしめつけながら、その甘酸っぱさを今に溶け込ませて
人の未来でも生き続ける人に。なれるように明日もまた生きよう。


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