非常識な方法で多発性骨髄腫の母が大復活した話

2022年3月上旬、母が謎の腰痛を発症。
普段通っていた接骨院の若手研修生の力が強かったとわたしに訴えかける母。
わたしも、てっきりその言葉を鵜呑みにして接骨院のせいだと思っていたのも束の間。

あれよあれよと言う間に母はその一ヶ月後にはベッドから起き上がれない状態に。

日に日に悪化していく状況にうろたえたのをよく覚えていいます。
時間の経過とともにますます病状は酷くなっていきトイレや風呂にも行けず腰に少し力を入れるだけで激痛でついには家の中で絶叫。
それも腕でももげてしまったくらいの勢いで母は叫ぶ。

トイレで身動きの取れなくなってしまった母を背負い何とかベッドまで連れていく。
当然ながら風呂も入れる状態ではなかった。
頭が臭くなるからと頭に専用の消臭スプレーをかけてあげたりして少しでもリラックスさせてあげたかった。体は温めたタオルで拭いてあげたりしていました。

そんな生活が続く中、5月に入ると久々に風呂に入りたいといい出した母。
風呂までなんとか連れていってあげると数分後に悲鳴が。。

あまりの激痛に耐えられなくなった母が風呂場で身動きが取れなくなってしまったよう。
わたしは床にシーツを敷いて、母をその上に移動させ引きずるような形で母をベッドまで移動させた。すると震え出した母は途端に寒いと言い出した。熱を測ると39度の高熱。5月なのに冬用の布団をかけてあげてました。
あまりの深刻な状況が続きわたしは親族と話て母を入院させることにしました。母もようやくここで入院することを受け入れた。
いくつもの病院を転々とする中、最初の1ヶ月は多発性骨髄とは分からず。母を心配する日々が続きました。
2軒目の病院でようやく多発性骨髄と診断されて、担当医には治らないと二回言われました。
わたしも父、弟もその悲報にただただ悲しむ日々が続く。
わたしは絶対諦められなかった。

どんな手段を使っても直してあげたいと思った。
しかし母は高齢で手術ができない年齢であった。
何千万円もする療法もネットで見かけたが、当然ごく一般的な家庭のわたし達はそんな資金もなく別の手段を血眼になって模索する日々。

大凡三ヶ月もの間入院していた母ともほとんど面会させてもらえずLINEで1日に数通ほどやり取りすることだけはできた。

具合も気力もなくなった母の打った文章に生力を感じられずに、
ひたすら心配な日々が続いた。

母の癌を克服させるためにわたしはある考えに行き着く。

2人に1人が癌になる時代とも言われる現代社会。
年間40万に癌で亡くなっている。
そこにわたしは大きな疑問を抱いたのです。
薬を使ってる筈なのにどうしてこんなにも多くの人が亡くなっているのだろうかと。

普通の人なら大手検索エンジンを用いて癌について調べるでしょうが、わたしは違う方法で答えを導き出しました。

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