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自分の悪魔と会話する

誰もが、自分自身の中に生まれる誘惑や、ずるいココロに引きずられようとするもの。対立する理想や望ましい姿と比較するならば、それは天使と悪魔のようなもの。ココロの中に生まれる「ささやき」に蓋をせず、きちんと対話してみませんか?

1,人間は「弱く」て「ずるい」

人の心は決して強いものではありません。見た目には他者からすれば、強くて勇敢で、いつでも正しいことをするように見える人も、ガラスのような壊れやすく、薄氷のようなすぐに破れてしまうココロであることもしばしば。

表に見える姿と、その人の奥底で思うココロにはギャップがあるものですね。しばしばそのギャップが評価やプレッシャーとなり、抱えきれないときに鬱や閉じこもりたくなることももちろんあるでしょう。それが人間なのですから。

だから、「弱い」というのは当たり前。「強い」というのは、何かを隠したり脚色しない限り、そうそうないのです。そして、楽や手抜きができるならば、少しでも易きに流れがち…そんなとき「こっちにしちゃえよ」っていう悪魔のささやきがふとつぶやくんですよね。

2、濁りのない人生はない

生まれ育ってから、順調に育ち、勉強も運動もバグツン。恋愛だってこなし、就職も結婚も…なんて一直線に登り続ける人生って、理想のように語られることもあるけれど、それっとどれほどの人がこの通りの道を歩めるのでしょうか。

多くの人はまっすぐ進まないし、寄り道もするし、遠回りもする。ときに嫌だなと思いながらやらなきゃいけないことや、こっそりだけどずるをしてしまったこと。あるいは悪気はないけどつい口走った言葉で、相手を傷つけるようなことも…人生はすべて澄んだ川のような流れであることは、きっとないでしょう。泥も入れば、色もつく。そうやって、幾度となく汚れや濁りがありながら、それでも時々にきれいな水を入れ、濁りを薄めたり流してきれいにしていく。それが人生なのですね。

だから、濁りのない人生はないし、濁ることを恥じることも、隠すこともない。いつだって、誰だって起こること。そこで、浮かび上がる「心に潜む悪魔」の声をきちんと聞いてあげることが大切だと思うのです。

3、心の声は選ぶことができる

ふと思い浮かぶことに、自分自身が嫌になることってありませんか。でもそれは、思っていることの「片側」だと思うのです。人間とは面白いもので、間逆なことを同時に考える生き物だと思うのですよね。

よいことと悪いこと

味方と敵

賛成と反対

片方に寄るほど、もう片方もはっきり見えているんです。中間だけが浮かび上がることって実はあんまりない。だから、とてつもないことを想像したり思い浮かんだりしても、それは人間にとって、恐れることではないと思うのです。

「あんなふうになりたくない」という心の声が、いわゆる「悪魔の声」をささやくことで、本当は反対を選ぶことを示唆している。そう考えると、ココロの中にある声は、まずは自分自身からのギフトとして受け取って、その中にある「本当の声」を選んでいけばいいと思うですよね。

例えば、小学生のころ「椅子に画鋲を置いたらいたずらできるな!イッヒッヒ」なんていう想像も、「お尻に刺さったら痛いだろうな」っていう真逆の考えと対置関係にあるものです。

だから「思い浮かぶ」事自体を忌避する必要はなく、それを受け止めた上で、「自分はどれを選ぶ?」っていう対話をすることが、自分自身の奥底にある優しさや、思いやり、相手を労ることのできる大切で大事にすべき気持ちに初めて触れることができるように思うのです。

4,自分を大切にすることが、相手を大切にすること

耳障りのいい言葉を追い求めたりすることよりも、いいも悪いもすべて受け止めた上で、改めてどっちを選ぶか。人の痛みや苦しみを理解するということは、自分自身でその辛さや不安を受け止めることが、すべてのスタートラインになっていると思うのです。

だから、相手を大切にできる人は、その前に、自分自身を大切にできなければ、表層的な身のない言葉になるように思うし、実際それは、すぐに相手にもわかってしまうことでしょう。

痛みがわかること。自分自身の痛みに気づくこと。そうやって、深く考えれば考えるほど、見えてくるのは「自分自身を大事にすること」が、すべての人間関係の根底に必要なことだということ。

評価や評判を気にしてばかりで、他人軸に主軸を置くのではなく、まずは自分の悪魔と正面を向いて会話できる自分軸こそが、真の思いやりに繋がるように思っています。


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