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読まねば書けぬ。

何かを言語化して自分の外に出そうと思うのは、いつも何かを読み終わったあと。

読むと書くは互いに連動している、ということがようやく腑に落ちた。

松岡正剛さんも『多読術』にあったけれど、ドミニク・チェンさんの『コモンズとしての日本近代文学』や近藤康太郎さんの『三行で撃つ』でも言っている。

読むことは書くこと。
ライターになりたいなら、日本文学・西洋文学・詩・社会科学/自然科学を読まないといけない。

惹きこまれる文章を書かれる方は、総じて博覧強記である。
どこから持ってくるんだろう、頭の中にインプットしたかすかな欠片がどうして残っているのだろうと思う。

小津夜景さんの『いつかたこぶねになる日』というエッセイも、日常生活での出来事と漢詩をつなげている。

自分の思考や生活に読んだ内容をしみこませて、書くことができる。
そうなりたいと思う。


昔の知識人はあたりまえのように息を吐くようにできていた。

清少納言の漢詩を取り入れた「夜をこめて」の歌もそうだし、源氏物語も歌の一部を書くだけで読者に連想させるという読者と作者の知の共演が繰り広げられている。

明治時代の夏目漱石も晩年に漢詩を多く書き、幅広く感性が研ぎ澄まされていた。

西欧に目を向けても、ドイツのヘッセは仏教にも造詣が深く、『シッダールタ』を書いている。

そういう先人たちの書を読むと、世界をどう見ているのか、どう読んでいるのかが不思議でたまらない。

古典とプログラミング、データ分析を行き来したら何かが生まれるのか?
そう考えているけれど、未だに答えは出ない。

けれど、これだけは確か。
世界のひとかけらでも読まねば、何も書けぬ。



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