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男がショッピングモールの下着屋の前を通るときの、懐旧。

小学生のときママチャリを買ってもらったのが嬉しくて、ちょっと遠くまで漕いでみたことがある。あっという間に知らない町に出た。町というより、田園だった。埼玉県は10分も自転車を漕げば田んぼに出られるようになっているのだ。

さわやかな風を浴びながら一面の緑を見渡していると、あぜ道を歩く中学生の三人組が目にはいった。揃いもそろって腰パンをしていた。あわてて目を逸らした。おれはなにも見ていない、と内心で唱えた。

なに見てんだよ! と荒あらしい声が飛んでくる。まったく知らない人間に怒鳴られるのは、あれがはじめてだった。おれはおまえらなんかじゃなくて田んぼを見ていたんだよ! と思ったが、怖いので全力でペダルを漕いだ。国道沿いのブックオフに出たので、小説を買った。

怖くて悔しくて、なんだか忘れられない一日になってしまった。

あのときの恐怖・焦燥・屈辱が、ショッピングモールにもころがっている。あそこはとにかく店が多い。通路の両側に並ぶ店を見ながら歩いていると、いきなり白やピンクを基調にしたはなやかな空間が視界に飛びこんでくる。まずい、と思ったときにはもう遅い。

桃色のブラジャーとパンティだけをまとった白いマネキンが、店先に立っている。なに見てんのよ! と叱られた気がする。いつもあわてて目を伏せてしまうのでそれ以上の情報はない。

見ようとして見たわけじゃないのだと思いながら、咄嗟にスマートフォンを取りだしたり、向かい側にあるたいして興味もない雑貨屋に目をやったり、どうにか見なかったことにして通り過ぎる。あぜ道のヤンキーにガンつけてしまったときから、まるで変っていない。

それでショッピングモールにはだいたい下着屋がはいっているので、すべてのショッピングモールはあの日の田園に通ずる、といってもいいのかもしれない。しかしこちらも負けっぱなしというわけにはいかない。

ショッピングモールというのは見たい店があちこちに散らばっていて、大抵行ったり来たりをすることになる。とにかく客を歩かせたがるのだ。当然、下着屋の前も何度も通らなければならない。

二度目になるとそろそろ来るなという感じがして、最初から視線を落として歩くようになる。やがて視界のはしっこにあのはなやかな空間が映る。動悸が高まる。それでも決して動揺を悟られてはならない。

いよいよ店の前に到達する。あえて視線を逸らしたり、速足になったりしてはいけない。いつも通りの歩みを披露するのだ。

――いつも通りの歩み?

はたと疑問にぶつかる。〈いつも通りの歩み〉とはなんだ? いつもおれはどんなふうに歩いているんだ? ただまっすぐ前だけを見つめて? いや、そんなことはない。すれちがう人間の顔をちらと見たり、道ばたの空き缶に目をやったり、なんだか忙しなく歩いている。

それなら下着屋にしたって、いっさい視界に入れないというのは不自然だ。八百屋の前を通って、ああいろんな野菜が売られているなあ、と思うまでもないように思う、あの感じで下着屋にも向き合いたいのだ。

そのためには下着屋に対するなんとなく後ろめたい感覚を乗り越えなければならない。ところが下着というのは本来ひとに見せないもので、基本的には恋人ぐらいしか見る機会がないのだから、そういうものが堂々と並んでいるというのはやっぱり身構えてしまう。

だからきっと、この感覚は何年経ってもうしなわれることがない。いくつになっても、下着屋の前を通りすぎるたびに様ざまな感情が胸中を駈けめぐるのだ。でも、その一瞬が小学生のあの日に繋がっているのだと思えば、悪くないのかもしれない。

一銭でも泣いて喜びます。