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サラリーマン・メロス

 メロスは承服しかねた。必ず、かのパワハラ部長に懲戒処分を行なわねばならぬと決意した。メロスにはビジネスがわからぬ。メロスは、第一営業局のプロパーである。夜な夜な接待をし、資料作成ばかりして暮らしてきた。けれどもハラスメントに対しては、人一倍に敏感であった。

 テッペンをまわった頃にメロスはフロアを出発し、エレベーターのボタンを新卒に代わられながら、六階はなれた此の第三クリエイティブ局にやって来た。競合コンペが間近かなのである。メロスは、それゆえ、先ず担当者と最終的なすり合わせをし、フロアをぶらぶら歩いた。

 歩いているうちにメロスは、フロアの様子を怪しく思った。定時を過ぎ、照明もほぼほぼ消されて、オフィスの暗いのは当たりまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、ビル全体が、やけに寂しい。ちょうどすれ違った新卒をつかまえて、うらうらで何かあったのか、先月此のフロアに来たときは、深夜でも皆がブレストをして、賑やかだった筈なんだけど、と質問した。

「それで言うと、直近で八名が退職しまして」
「その要因は?」
「部長がパワハラをするので」
「どうして?」
「部下を信用できないとおっしゃって……どんなソリューションに対してもジャストアイデアだと跳ねのけて人格否定までなさいます」

 メロスは、体育会出身の男であった。半開きのマックブックを、手のひらに載せたままで、のそのそミーティングルームにはいって行った。たちまち彼は、入口の側に坐った新卒に捕縛された。K社のオリエンに向けて壁打ちしているところに、メロスの懐中から競合S社の製品が出て来たので、騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、部長の前に引き出された。

「なにをするつもりであったか。言え!」部長ディオニスは手許のペライチから視線をあげ、静かに、けれどもトンマナを保って問いつめた。

「パワハラの横行する現状を改善いたします」メロスは五月雨式に続けた。「部下のマインドを疑うのは、最も恥ずべきスタンスです。クライアントの信頼を失っても最後まで信じるのが上司のミッションでしょう」

「口頭ベースでは、どんな清らかな事でも言える。おまえだって、いまに、うちに異動になってから、泣いて詫びたって聞かないぞ」

「私は、フルコミットする覚悟で居ります。自ら異動希望を出したっていいでしょう。ただ、異動までに二日の猶予を頂戴したいのです。第一営業局の一員として、手持ちの企画を走らせてから、必ず、帰ってきます」

「ばかな」と部長は、嗄れた声で低く笑った。「失注になった得意が戻って来るというのか」

「そうです。戻って来るのです」メロスは必死で言い張った。「そんなに私を信じられないのならば、いいでしょう、この局にセリヌンティウスという後輩が居ります。彼を、人質としてアサインしましょう」

 セリヌンティウスは深夜一時、デスクに召された。部長ディオニスの面前で、かつてのトレーナーとトレーニーは、二年ぶりで相逢うた。メロスは、後輩に一切の事情を共有した。それから肩をひとつ叩いた。先輩と後輩との間は、それでフィックスした。セリヌンティウスは、縄打たれた。メロスはすぐすぐに出発した。

 メロスはその夜、一銭も払わずにタクシー券を用いて、居酒屋へ到着したのは午前の二時、若手が便器にしがみつき苦しげにアウトプットしていた。メロスの還暦を迎える上司も、ひどく酔っぱらっていた。

 メロスは翌る日の早朝、データビジネス戦略局を訪れた。そうして、うらうらで事情があるから、納期を明日マストにしてくれ、と頼んだ。担当の者は驚いて、それは出来かねます、こちらもリソースが不足しておりますのでと答えた。メロスはクライアントとこれで握ってしまったから、どうか明日にしてくれ、と嘘まで言って頼んで、どうにかアグリーをとった。

 昨晩の宴に出席した上層部らにもMECEに挨拶をせねばならなかったが、直属の上司が見あたらない。メロスは方々でヒアリングをした。昼を過ぎ、陽が傾きはじめ、夕闇が迫っても、上司は見つからなかった。夜になって、MTGを終えたところをようやく捕まえた。

 次の朝を迎えてメロスは跳ね起き、まだパツっていない、すぐすぐに取りかかれば、納期までには十分間に合う。今日は是非とも、あの部長に、人の信実に関して気づきを与えてやろう。さて、メロスは、スーツの襟を正し、雨中、矢の如くオフィスに向かった。

 私は、今宵、異動される。異動されるために企画を走らせるのだ。身代りの後輩を救うために企画を走らせるのだ。部長のパワハラを打ち破るために企画を走らせるのだ。走らせなければならぬ。そうして、私は異動される。さらば、営業局。

 オリエンを見返して、バジェットを確かめ、資料を展開した頃には、雨も止み、クライアントの温度感も高く、そろそろ暑くなってきた。メロスは額の汗をこぶしで払い、ここまで進捗すれば大丈夫、もはや営業局への未練は無い。

 万事が順調に見えたが、データビジネス戦略局から連絡がはいり、メロスの手は、はたと止まった。見よ、新着のメールを。想定していたよりも工数がかかり納期までに間に合わせるのが難しいとあった。タスクは濁流の如く滔々と押し寄せ、キャパシティを圧迫していた。

 今はメロスも覚悟した。巻き取るより他に無い。ああ、神々も査収あれ!メロスは、営業マターではないものの、社内のナレッジをかき集めて資料に落しこんだ。がちゃがちゃ荒い音を立てキーボードを叩き、完成が見えて、ほっとしたとき、突然、別案件でのMTGが舞いこんだ。クライアントや媒体の人間が多く来社するというので名刺を携えて行った。

 名刺交換の終わる頃には陽も沈み、メロスの眉宇には焦燥が見える化していた。流石に疲労し、折からバナー広告のインプレッションが発生しないと連絡が来て、メロスは幾度となく眩暈を感じ、これではならぬ、とエナジードリンクを飲み干しては、よろよろ二三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。サスティナブルではなかったのだ。

 メロスは、トイレの個室に転がりこんだ。私は、ベストエフォートで取り組んだのだ。それでも確かにフィージビリティが欠けていた。ああ、せめてバッファをとるべきであった。未達で終わるのは、はじめからなにもしないのと同じことだ。セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。

 いまからリスケは叶わぬだろうか。幸いにもエビデンスは残していない。ああ、そうではない、そもそも論としてこんなやり方が間違っていたのだ。何もかも、ばかばかしい。やんぬる哉。便座にもたれかかって、うとうと、まどろんでしまった。

 ふと耳に、潺々、水の流れる音が聞えた。隣りの個室で、水が流れているらしい。よろよろ起きあがって、出ると、他の扉はどれも閉まって、静まりかえっている。誰もが安息を求めて、この狭い部屋で眠っているのである。まったく不誠実だ。私は、彼らのもとにまで零落したのではない。広告マンたる者の矜持として、必ず、企画を走らせなければならぬ。いまはただその一事だ。走らせろ!メロス。

 メロスは黒い風のようにPDCAサイクルを回した。資料を改修し、仮説を再度検証してシミュレーションを立てなおした。急げ、メロス。遅延してはならぬ。ステークホルダーから最終的なコンセンサスを取りつけ、そうして企画は、ついに走りはじめた。メロスはエレベーターを待つ間すら惜しく、階段を駈けあがった。閉館のアナウンスが流れて、まさに照明も消えようとしたとき、第三クリエイティブ局に突入した。

「待て。メロスが帰って来た。約束の通り、いまいま、帰って来た」と大声で叫んだ。セリヌンティウスの縄はほどかれた。

「セリヌンティウス」メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。私は、途中で一度、悪いビジョンを描いた。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁するオーソライズすら得られないのだ。殴れ」

 セリヌンティウスは首を振った。

「先輩を殴ることなど到底出来かねます。代わりに私を殴ってください。私はたった一度だけ、ちらとあなたを疑いました」

 メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。すると群衆の中からひとりの男が躍り出て、パワハラだ!と声高に叫んだ。彼は、必ず、メロスとかいう男に懲戒処分を行なわねばならぬと決意したのだった。

太宰治『走れメロス』青空文庫
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一銭でも泣いて喜びます。