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【読了記録】 『遠い山なみの光』(カズオ・イシグロ) 感想

カズオ・イシグロの作品を読むのはこれで三作目だ。
前に「この人の作品は技巧的に読むより感性に任せて読むのがいいのではないか」と語った。だけどことこの作品に関しては、その技巧を味わうという読み方も大切なようである。

僕はこれを三日前に読んだ。その後にすぐ感想文の草稿を書いたものの、ここに清書するのがなかなか億劫で今まで渋ってしまった。だがそれは決してこの小説が前に読んだ二作より劣っていることを意味しない。

確かにイシグロさんの作品群の大きなテーマの一つだと僕が思っている、慈愛に満ちた優しさは、『クララとお日さま』や『日の名残り』の方がより顕著に感じることができた。それを求めて読むのなら、それらの作品の方がいいかもしれない。

だけど出世作であるこの作品には、イシグロさんの作品群の主題が遺憾無く発揮されている。それは僕が見るところ以下のようなものと推測できる。

イシグロのメインテーマが見え始めた

あるSNSで前に、この作品には昔の戦争の影が見え隠れし、その灰色の空気がBGMのように背景を覆っているようだと書いた。

今こうして振り返ってみると、その灰色の性質はなにも昔の戦争の影だけのせいではなさそうだ。僕が勘付かなかっただけで、前の『日の名残り』『クララとお日さま』にも存在していた影なのだろう。

どうやら、イシグロさんは主に時代の移り変わりに由来する、対立する二つの認識体系(つまり価値観やスキーマと言った概念)の過渡期の間で揺れる人々を描くことを得意としているようだ。考えてみれば『日の名残り』『クララとお日さま』の中にもそのようなものは見えた。

二つの対立概念を黒と白で色付けすると、過渡期にはそれらは重なって灰色のように見えるのである。灰色の性質の所以はここにある。
要するに僕らも他人事とは思えないような、人々の価値観が変わりつつある、まさにその時代を描いたものが多いようなのだ。

この作品の対立概念とそれらの体現者

この作品の二つの対立する価値観とはなんだろうか。僕はそれを、戦前の日本的な古風な人たちと戦後の欧米の新たな人たちに見出した。
前者は緒方さんに、後者はニキが背負っていることは、多分誰の目にも明らかだろう。

緒方さんは高い能力をもっているが、昔の日本で長く生きてきたため、古い価値観から抜け出すどころか、まさに古い価値観を体現している人物だ。
彼の「〜すべきだな」「〜ねばならん」という言い回しの多用は、まさにその価値観を表している。

一方でニキは、優しい心を持つものの、ややしたたかで現実主義、合理主義、効率主義的な今風の価値観である。
そしてその狭間で、悦子は苦しむことになる。

技巧的に優れた作品

この作品を読み始めたとき、長さの割にやたらと沢山の人物が出てくる作品だなと思った。チンプンカンプンになりかけたので、某所のレビューを見た。そしてネタばらしに類するものを見てしまった。

当然ながらがっかりしたが、それが事実ならば凄いカラクリを仕込んでいるんだなと、先を読むのが楽しみにもなった。
なるほど。だから本来登場すべき人物の倍近くが出てくるのだ、と。

だけどそれが事実だとしても、そのように解釈することもできれば、別の解釈もできる。
読み終えて、イシグロさんの『語り手に全てを語らせるのではなく、最終的な理解と判断は読者に委ねる』という手法がこの作品から早くも光っているように思った。

内容の個人的感想を書いてみよう

この作品の中で僕が一番好印象を持ったのは、実は緒方さんだった。古い時代のしきたりを頑なに守って生きる人だが、そういうところがなにか僕の心境にくる。

あなたのどこか近くにもそんな人はいないだろうか。
僕に照らして見れば、こうしてスマホからnoteを打つことはできるが、今のネットやスマホ、PCを使いこなしているとは到底言えない。

考え方も、緒方さんのように柔軟になろうと努めているし、あるいは新しいものを色々摂り入れたいとは思うものの、やはり古いところがあることは否めない。

現在のこの過渡期の中で、不平不満こそこぼさないものの、どこか苦しんでいる。そういう僕だから、古い価値観にしがみつく緒方さんが潔く感じるのかもしれない。

この作品は随分昔に書かれたものだが、そのようにして考えていくと、極めて高い普遍性をもっていることに気づく。

蛇足だが、日本人の会話では、すぐに答えを求め、返事を催促する傾向にある。われわれの日常を振り返ってみればいいだろう。
欧米人の会話では、答えを時として待ち、相手の身振り手振りの中から求めることが多いように思う。洋画を見ていてもそれはわかると思う。

イシグロさんは、こういう微妙な民族性の違いも書き出している。こういうところも詳らかに読み取ろうとしてみれば、さらに面白い読書になるかもしれない。

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