見出し画像

黒歴史だと思える感覚は大切かもしれない

SNSと黒歴史

Twitterで何かを呟く度、黒歴史をひとつずつ積み重ねているような気がするのは僕だけだろうか。

Twitterは、文字制限があるので短文で、気軽にカジュアルに投稿ができる。そのおかげか、秘めておいた方がいいことも一時の感情にまかせて投稿できてしまう。そういうツイートを後からみると「なんでこんなことを呟いてしまったんだろう」と思うことがある。

しかも、どんなツイートも光の加減によっては黒歴史に見えてしまう。なので、僕はしばらくTwitterをするのを控えていた。(単純に忙しかったからというのもあるけど)。

Twitterと入れ替わるように、noteに軸足を置くようになった。でも、ふと考える。noteの記事でも黒歴史であることには変わりがないのではと。長いテキストであれば黒歴史にはならない? そんなはずはない。むしろ、長い分だけ黒が濃いかもしれない。

黒歴史はなぜ起こる

黒歴史。「なかったことにしたい、忘れたい過去の言動」のことを人はそう呼ぶ。

なぜ黒歴史と呼ばれる現象が起こるのか。『SNSの哲学(戸谷洋志)』(創元社 2023年)という本に詳しく書いている。

SNS上に投稿されたコンテンツは、それがまるで今現在起きているかのように思わせる。なぜなら、それがデジタル情報であり、したがって劣化しないから。

デジタル情報には「物質性」がない。例えば紙であれば、一年後二年後と徐々に劣化していって、100年後にはボロボロになる。それは紙に物質性があるためだ。一方、SNSの投稿は一年後も二年後も100年後も形は同じ。劣化などしない。物質性がないからだ。

つまりは、ネットに書かれているものが、時間の影響をほとんど受けず経年劣化がないため、後から振り返って見ても生々しくありありと感じられる、ということだ。

(それが、誰でも見られる状態にあることももちろん関係しているだろう)。

対処するには

どう対処していくべきか。SNSをやめればいいというのは現実的な意見ではない。時は令和5年だ。また、一体何のためにSNSをするのかという問いも今は横においておく。

うーん…。一番は黒歴史と思われるツイートなり記事なりを消去することだろう。そういえば、Instagramのストーリーズという機能は24時間で消えてしまうが、あれは黒歴史対策の可能性がある。

noteに関していうと、一度投稿した記事はいつでも下書きに戻したり、削除することができる。白状すると、僕はときどきやっている。昔の記事を見返したら「君は何を仰っているんだ?」と思うことが多々ある。恥ずかしくなってそっと未公開に戻す。

黒歴史と思える感覚は大切かもしれない

でも、自分の書いた文章を恥ずかしいと思う気持ちはとても大事。そんなことが高橋源一郎さんの著書『誰にも相談できません』(毎日新聞出版社 2020年)に書かれていた。

毎日新聞で掲載されていた人生相談のコーナーを一冊にまとめた本で、この本の中で「自分の文章が恥ずかしい」という悩みが寄せられていた。22歳の女性からだ。

Q 自分の文章が恥ずかしい
私は大学4年生になり、自分で書いた文章があとになったら恥ずかしくて読めなくなりました。 他人にみられる文章であればなおさら恥ずかしくて、課題や卒論はもちろんSNSや日記さえも恥ずかしい。知識のなさが露呈していることと自分の性格や癖がそのまま相手に伝わる感覚が恥ずかしいのですが、どうしたらうまい文章を書けますか? ( 22歳・女性)

著者の回答はこう。

A 自分の書いた文章が恥ずかしくて読めない、というのは、とてもいいことです。 誰だって、最初は、素敵な文章を書くことはできません。なのに、それを恥ずかしく思えないとしたら、感受性が麻痺してるのかも。(略)
「恥ずかしさ」は、誰もが自分の中に持っている、厳しい「批評」の声です。あなたを導く「先生」は、実はあなた自身の中にいるのです。ぼくだって書くときは、いつも恥ずかしい。でも、恥ずかしくなくったら、終わりだと思っています。ところで、送ってきた文章、とても良かったですよ。自信を持って!

恥ずかしさは批評性。なるほど。黒歴史だと思える感覚はとても大切なのかもしれない。そう考えると、過去のツイートや記事を恥ずかしいと思うことは、自分が変わったり成長した証のように見える。


歴史の教科書に書いてあることだって、見方によってはぜんぶ黒歴史だ。歴史はそういうものだ。もしかすると、そもそもそれを白とか黒とか考える必要がないのかもしれない。

最後までお読み頂き、ありがとうございます。 サポートは書籍代に吸収されます。