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切り捨てたり、隠すより、残す方が難しい

『青が散る』を読んで、
無邪気さや清廉さや潔癖、いわゆる純粋性と言えるものの喪失は、突如ふわっとなくなってしまうものではなく、長くなった爪が煩わしくて切られるのと同じように意図的に切り捨てられてゆくものなんじゃないかと思った。


ぼくは自分の「爪」が伸びたことがある日からすごく気になってしまった。色んなところにぶつかり、洋服の糸を吊ってしまうし、人に触れようものなら優しくではなく傷つけるものになっていると感じるようになった。

だから、よく「爪」を切るようになった。そして切りはじめたら、もう切ることをやめられなくなってしまった。深爪になってもおかまいなし。そこに痛さはあるけれど、この「爪」は持っておくべきものではないといつからか思い込むようになっていた。

純粋性は年齢とともに衝突や葛藤の苦しみと痛みを伴いながら意図的に抑えられ、失われていく。
抑えたり、失った分だけ大人びた気がするし、人からも大人びていると思われる。でも失うべきものであるかどうかは疑問だと思うこともある。

ふとしたときの女の子の友人の一言が気になっている。
もうこの歳になって心から好き好きでたまらないみたいな恋愛はできない。そんな純粋さは結婚やら社会からの目やらなにやらをいろいろ考えてしまってもう2度とできない。

そうなんだろうか?
切った「爪」はかえってこないんだろうか。(たしかに切ったらそれはもうかえってこないんだけど)また新しく生えてきているのに上からマニキュアを塗って隠しているだけなんじゃないだろうか。

そうやって、隠さなきゃ、切り捨てなきゃたしかに世の中や社会はうまく歩いていけないのかもしれない。ただ歩いてるだけなのに色んなところに引っかかって色んな糸を吊ってしまうのかもしれない。

でも人は爪がないと実は踏ん張りがきかなくて、ものを掴んだり指先に力を入れられなくなるらしい。
だから存外爪ってやつはなにもひっかけるだけじゃなくて、大事な存在なのだ。ぼくたち人の最期の後ろ楯なのかもしれない。
だから少しくらいなら爪が伸びることも許してやってもいいかもしれない。大人にならなくてもいいじゃない。



最後まで読んでくださった方ありがとうございます。ピュアな心は決して汚れるものではなくて、自分から意図的に隠したり捨てているのものなんじゃないかなぁとふと思ったという話でした。
書きながら自分の爪をみたらわりと適度な感じで切られていました。笑

では、また明日。
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