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「喜びは苦しみの向こう側」3

三浦海岸駅へ戻る途中、学は後ろ向きに歩きながら俺に覆い被さる様にして問いかけてくる。「お前も辞めちゃえば?」俺「なんとも言えないな。親がなんでいうかわからん」俺は親父にブッ飛ばされるイメージを描いていた。ブッ飛ばされた後は母親に説得されもう暫くは学校へ通い様子を見る様に言われるところまで明確にイメージしてしまっていた。

改札を抜けてホームへ上がるとちょうど赤い車両が入線してきた。クロスシートの品川行きはまたガラガラだった。学校をサボるにしても海で時間を潰しきれない時は、品川と久里浜を行ったり来たりするときもあった。その列車の中で何人もの人の行き交いを観察しては全ての人が悲しそうにそれぞれの人生を生きているようにに見えていた。

クロスシートに学と2人横並びに座ると窓側の俺はいつも通り外の景色を漠然と眺めていた。地元に帰る電車に乗り継ぐ横浜駅に着くまで学は隣で今後の展望について話をしていたが、今日は退学届を出しただけなので早めに帰宅すると言って横浜駅で降りて行った。

俺はもう一度イヤホンをつけ、メタルポジションのカセットをウォークマンから取り出し表面にひっくり返し再生ボタンを押した。オリジナルプレイリストのA面はスキッドロウのアイ・リメンバー・ユー、透き通ったアコースティックギターのイントロに何故か涙腺が緩んだ。

何に気付き何をすればこの渇きに似た物足りなさを満たせるのだろう?心の奥底、本能のところから得体の知れないものが今のままではダメだと背中を押してくる。

単純に孤独だった。中学の頃のバンドのメンバーは高校入学と共に離散してして再結成はままならない。複数の親友は地方の高校へ出て野球に打ち込んでいた。甲子園を目指せる強豪校へ入学し日々鍛錬するのだ。既に風の便りを聞いていた俺は彼らが羨ましかった。


とにかく夢中になれる何かが欲しかった。キツくても、辛くても、成長が実感できる事ならなんでもよかった。


俺が初めて楽器を触ったのは5歳の頃のピアニカだった。同じ年長さん達で卒業までに一曲覚えて親御さん達に披露するのだ。大多数子供達はピアニカ。一部の子達はスネアドラムとバスドラム、木琴などの打楽器であった。当然各打楽器は1人1つずつ支給されるので羨ましい気持ちでいっぱいだった。

小学校に入ると吹奏楽、ブラスバンドへ入部した。部の方針で小学4年生から入部となり、自分の意思で親にお願いして入部した。兄が少年野球をやっていたせいで普段の遊び相手はヤンチャな子達が多く、当時の俺の選択肢に周りは驚きを隠さなかったが、母親が学生の頃フルートをやっていたのでとくに反対に会うこともなく入部させてくれた。

配属されたパートはトロンボーン。顧問の教師は強烈なスパルタ指導で有名な先生で全く知らずに入部した。出場する吹奏楽コンクールでは金賞受賞が必須の常勝軍団として地元の大人達の間で認識されていた。

入部してからは楽譜の読み方を習うと同時にトロンボーンのマウスピースを使って音を出す練習。マウスピースのみだと大きな音は出ないので生徒に支給され自宅でひたすら音出しするように指導される。支給されたマウスピースは煌びやかな銀色で、見た目以上に密度のある重さが重厚感を醸し出し、重要なアイテムを手に入れたRPGの勇者の気分だった。

楽器が支給されてからは放課後の音楽室で特訓が始まる。実際に吹いてみて出た音の高さが楽譜内のどの音なのかを先生が教えてくれる。地道に増えていく音数がレベルアップを実感させてくれて嬉しくてたまらなかった。

とにかく楽しいので夢中で練習した。いや、むしろ練習に励んだという表現は当てはまらないように思う。顧問の先生から要求されるレベルは日に日に高まり、課題曲が次々と追加されていくが、練習量に比例した上達という見返りは大きな喜びとなって俺を夢中にした。

周りの大多数が女の子のなか、男子であることのアドバンテージは肺活量を生かした音量であった。それを買われて高学年になるとパートリーダーを任され自己肯定感は最高潮であった。

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