大阪芸術大学文芸学科に入学したら地獄を見た話


タイトルの通りです。
※この一連の文章には大阪芸術大学文芸学科及び大阪芸術大学文芸学科の学生の名誉を毀損するかもしれない表現が多々登場します。大阪芸術大学文芸学科及び大阪芸術大学文芸学科の学生が好きな人は見ないでください。


私はこの春、無事に大阪芸術大学芸術学部文芸学科の2回生に進級した。

文芸学科という言葉を初めて聞く人も多いかもしれない。
文芸学科とは、文学研究を主とする一般大学の文学部とは違い、創作分野に重点を置き、自分自身で表現することを目的とした学科だ。
字面から、小説家になりたいと思う者がこの進路を選ぶことが容易に想像できるだろう。

さて、なにを隠そう、私もそのひとりである。
現代小説というよりは近代文学に傾倒しており、太宰治、夏目漱石、志賀直哉といった所謂文豪たちに最早崇拝的な敬意を抱いている。(好みの問題で全然尊敬してない人もいる)
ただ、彼らは私の信仰対象であるだけではない。同時に目標でもある。
生涯を捧ぐ文学の追求。洗練に洗練を重ね大成した文字の芸術。
私は、そんなものを夢見ている。そして、それに追随するには文芸学科で学ばなければならない。文学部で研究したとて私の創作は誰かのコピーになるだけである。私は私だけの表現を発見し、そして磨き上げなければならない。
そんな気持ちを胸に、私は2018年春、大阪芸術大学文芸学科の生徒になった。


そして1年経った。

結論から言うと、大学生活はクソゴミだ。
ある程度培ったはずの語彙力が働かなくなるほどには、クソゴミである。
なぜ高い志を持って入ったはずの大学で満足のいく学びが得られていないのかというと、それはただひとつの理由で、つまりは、
生徒の質が悪いのだ。

簡単に言うと、私はこの学校では少数派、極めて希少な存在だったのである。

私は知らなかった。
大阪芸術大学文芸学科に入学する大多数の人間が、文学に対する興味も、関心も、持ち合わせていないことを。

大阪芸術大学文芸学科においてマジョリティーは、ライトノベル、ゲームシナリオ、アニメ原作、そういったサブカルチャー的な面に思いを馳せる者たちだ。
ライトノベルが文学かそうでないかとかそういうくだらない議論に費やす時間は無いので端的に言ってしまうが、私はそういったものを目指して創作の分野に足を踏み入れるのは間違いだと思っている。
無論、彼らもこの文芸学科に入るべきではない人間達だと初めから感じていたし、今も日々感じ続けている。
こう断言すると大阪芸術大学文芸学科に通っているようなジャンルの方々から非難されそうだが、私は彼らに歩み寄るつもりも、彼らを場違いであるという考えを改めるつもりもない。

誰になんと言われようと、どうしても腹立たしいのは変わらない。

彼らと同じ教室で学んでいてひしひしと伝わってくる、「小説というコンテンツをアニメ、ゲームの原作としか考えていない」という態度はあまりにも腹立たしい。
もはや反論の余地も無いだろう。
彼らは深夜のアニメや、ゲームに触れるうちに、自分の頭の中に居座るキャラクター達がこんな風に動き、一般人に消費されることとなったらどんなにいいだろうと夢想する。しかし気がついていて、自分には絵の才能が無いから漫画もアニメーターも目指せない。じゃあ何があるかと考える。辿り着く。ライトノベルがあるじゃないか。うまくいけば漫画の原作を担当したり、ゲーム化したり、できるんじゃないか? そんな風に考える。

その時点でお前達に小説の才能は無いと私は常々思っている。文学はアニメ化の手段ではない。何かの原作のためにあるのではない。文学はいつだって、文学のためだけに存在すべきなのだ。そんなこともわからない者に原稿用紙を消費する資格はない。

しかし、これも仕方がないのかもしれない。
文学という分野はサブカルチャーに食い破られて絶滅寸前、その内容も意味も、夏目漱石と太宰治の違いさえわからない人間が増えてきていることも、並んだ活字を追いかけるだけの作業は辛くてとても出来たものではないという主張が一定数の同意を集めることも、事実だ。

ただ、それでも、残念なのは、純粋で崇高な文字の芸術を追い求める立場にある大阪芸術大学文芸学科という組織が、その義務を放棄してしまったことだ。
この大学は、中身など微塵もなく、ストーリー性の欠片も無く、ただオタクが自己投影しやすいキャラクターの主人公がアホみたいに無条件に女に好かれ、特に面白くもワクワクもしない世界で剣を奮ってたまにしょうもない女とのラッキースケベを展開する、悪夢のような作文を書き、恥ずかしげも無くドヤ顔を披露しているライトノベル作家(?)を教員に呼ぶことで前述の許しがたいオタクに媚びを売り、ライトノベルに関する科目を大量に作成し、果たしてこの大学に本当の文学が失われつつあることを憂う教員は存在するのか? と疑問を抱かせる、そういった大学に成り下がっているのだ。大阪芸術大学にとって教育とはビジネス、金さえ入ればなんでもいいのだろうか。
無論、この大学に信用できる教員などものの1人も発見できなかった。高齢でネームバリューもそこそこの文学者が集っていながら自分の主張をはっきりと言う人間は皆無だ。(文芸学科の大多数を占める仲間たちは他人とのコミュニケーションもろくに取れない繊細な人なので、彼らが傷つかないように黙っている可能性も捨てきれないが。)
そもそも文学というのは自己主張の上に成り立つものであるのに、このお爺さん達といえば、どんな時も来る者拒まず去る者追わずのスタンスで、万人受けする授業の展開、誰にでも出来そうな知識のひけらかし、まるで過激な考えで生徒が離れていくことを怖れているかのごとく。そんな人間から一体私達は何を学べばいいのだろうか。


ここまでで周りの生徒が良くないという話と、大学が良くないという話をした。ではここで、そんな大学で受けるそんな生徒たちとの授業の様子を紹介する。

水曜日の5限に、小説を書いてひたすら合評するゼミがある。
教授が出したテーマに沿った小説を一本書き、読んでもらって感想を言い合う、いかにもな授業だ。
ちなみに、このゼミには15人の生徒がいて、そのうちの3分の2はなんらかのジャンルのオタクなのだが、それはこの話とは全く関係ない。

まず、このゼミの大多数の生徒の作品は、論ずるに値しないレベルのものだと言っていい。下手だ。
ゼミの仲間たちは、とにかく原稿用紙を無駄にする。教授から5〜10枚くらいで、と言われてもなぜか無視して15枚ほど書いてくる。21枚書いてきた人もいた。(理由が本当にわからないので受け入れるしかない。)
だが、それはいい。彼らも表現者だ。筆が止まらないのだとしたら仕方がない。問題は、そのやたらと多いページのほとんどがゴミになってしまっていることなのだ。15枚書いてきても、12枚は特に意味のない会話と行動の事細かな説明で終わる。
「僕は電車に乗った。電車は満員だった。押し潰されそうになりながら揺られていると、駅に着いた。電車を降りた。改札を出た。少し歩いて、地下鉄に乗り換えた。また電車に乗った。……」といった、日記のような細かくて全く必要のない説明と、「明日、雨が降るかな?」「わからない」「そういえば昨日、阪神負けたんだ」「最近、弱いよね」といった伏線でもなんでもないどうでもいい日常会話でただただ紙を無駄にしている。
12枚の中に3行伏線があれば良い方だ。そして残りの3枚で、物語は急に展開する。展開といっても、大概は死ぬか、殺されるか、生きていると思ってた人が実は死んでいたかで、とにかく命を失くしたがる。といっても、その死には大抵大した意味は無く、ただいたずらに登場人物の命が消え、残された者は悲しみ、読者はなぜ死なないといけなかったのかなという答えのない疑問に取り残される。
この酷さが伝わるだろうか。15人いて5人は誰かを殺しているのだから、ストレス社会は厳しい。
死ななかったとしても、ストーリーはありがちな、表現は手垢のつきまくった、しょうもない作品ばかりなのだが、合評にあげられると、仲間たちはそれを褒める、とにかく褒める。嫌われたくないという心理が発揮されているらしい。
彼らは、合評するということの意義をよく理解していない。作品をより良くするのは、褒め言葉ではない。わかりづらいと否定され、理解できないと指摘されて芸術は向上する。文学に限った話でなく、絵画も、勉学も、スポーツもそうだ。悪いところを知らなければ、伸びないだろう。
しかし彼らは、仲間の作品をよくしたいという気持ちより、保身のため、つまらない利己心のために、思ってもいない適当な褒め言葉を並べて自分の意見にするのだ。
私の作品の時もそうだ。私自身は別にゼミの人間に褒められても嬉しくないし、褒められるために来てるのではなく、悪い所を知るために来ているのだからガンガン言ってくれという気持ちだったのだが、感想を求められた5人の人間はひとつも悪い点を述べてくれなかった。それどころか、1人目の男が口にした「文章のリズムが良い」というよくわからない褒め言葉を残りの4人が繰り返して終了するという本当に腹立たしく、時間と授業料をドブに捨てたことを知ってやるせない気持ちになる一幕だった。
何をそんなに怖れているのか、とにかくマイナスポイントは言えないらしい。かといって褒め方もわからないので、前の人間の言葉を拝借する。
持論を述べると、下手くそ小説の書き手にはアドバイスをもらったところで「時間がなかった」「これ以上書くと分量が増えすぎるのでそこは省いた」(なら先に意味のない説明文と会話文を省けと個人的には思っている)とか言う人間もいるにはいるが、アドバイスを素直に受け入れられない人は当然いつまで経ってもクソ文章の書き手に過ぎないので嫌われようが陰口叩かれようが真面目にどうでもいい。実力のない人間に何を言われたって痛くも痒くも無い。
とはいえ私は大阪芸術大学文芸学科のマイノリティであるため、この主張は届かないだろう。


ここまでつらつら書き記した通り、ほかの授業も似たようなもので、この大学で学べることはほんのわずか、身になっていると感じるより先に時間と授業料と労力に見合っていないと感じられる授業展開になっている。補足だが、文芸学科以外でも、教員免許を取るための授業をする教授が滅茶苦茶授業が下手だとか、そういうことがざらにある大学である。
私は京都府から2時間ほどかけて大学に通っているが、この大学で得たものを金銭に例えると1ヶ月の電車賃ほどもないだろう。

この一連の文章は文学というものを愛する私の個人の視点から書いたものであるため、私に共感する部分があるのなら、大阪芸術大学文芸学科に入学することは絶対にやめた方がいい。大阪芸術大学文芸学科のマジョリティとなるゲームシナリオ、アニメ原作、ライトノベルを目指す人間ならそれなりに面白いのではないだろうか、AO入学なら基本的に落とされることはないので適当に受ければ良い。

最後に、私的なことだが、自分はこの無意味な勉学に耐えられず、大金を払ってくれる親にも申し訳ないので中退しようと考えている。今のまま20代の初めをオタクの巣の中でただただ浪費するわけにはいかない。
時間を巻き戻せるならば高校3年の自分に考え直せと言いたいが、不可能なので、できる限り今の高校3年生に教えてあげたいと思う。大阪芸術大学文芸学科と検索した時に引っかかりますように。

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