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閑話休題(2)─私の中国語遍歴

先週私がこのnoteを始めてから一周年になりました。毎週ではありますが今でも継続的に翻訳のノウハウを書けているのは、自分でも驚きです。そんな私が、どのようにして中国語に出会い、中国語を勉強してきたのかということに興味がある人もいると思います(希望)。そこで今回は、現在の翻訳の仕事を勝ち取る前の、自身の中国語遍歴を皆さんにお伝えしたいと思います。これを見て皆さんの中国語学習に少しでも参考にしてもらえれば幸いです。

何ぶん長く、自分語りになると思うので、苦手な方はブラウザバックしていただければ。紹介形式はご交流もある華村@中国さんのを参考にさせてもらいました(すみません)

出会い期

中学生の時は英語一筋で、元々外国語を勉強することが好きだった私。そんな私の中国語との出会いは高校入りたてのころでした。

高校に入って初めての授業。確か漢文の授業だったと思います。担当の先生が、最初の授業であいさつをしたのですが、冒頭からなにやら得体のしれない言葉でしゃべりだしました。「先生外国人かよ」とざわつく教室。結局先生が日本人で、しゃべった言葉は中国語だったということが分かったのですが、この出来事は私に大きなインパクトを与えました。

これで中国語に興味を持った私は、その日のうちに外国語を勉強する部に入りました。英中仏独語を勉強できる部だったのですが、中国語の顧問をしていたのがその先生でした。私はその先生に中国語を教えてもらうことにしました。

結局その部で、高校3年間中国語を勉強したのですが、内容は他の中国語教室でもやっている、中国語のいわゆる「bo」「po」「mo」「fo」の発音練習から始まるあれでした。何せ部活動ですから、1年間中国語をある程度まで勉強したら上級生が卒業し、新入生が入ってきてまた中国語のカリキュラムがリセットされて発音練習からという、その繰り返しでした。しかし今から考えると結果的に、私は高校3年間で3回分発音練習のカリキュラムを経験したことになり、これにより発音だけはみっちりと鍛えられることができました。

勉強期と葛藤期

高校での中国語に対する興味もあり、大学は中国語学科に進学しようとしたのですが受験に失敗。地元の大学の英米学科に進むことになりました。

中国語は第2外国語として勉強したわけですが、英語そっちのけで、中国や中国語に対する興味は膨らむばかり。そうしているうちにバイトでためたお金を使い、ついに在学中に中国旅行が実現しました。中国では、ちょうど留学中だった私の高校時代の友人Aを訪ねたのですが、彼が大学の交換留学で中国での生活を謳歌しているのを目の当たりにし、自分の中国留学に対する思いが決定的となります。

帰国後はひたすら中国語のブラッシュアップに励みました。ただそこから中国語の伸びが頭打ちになり、中級レベルからなかなか脱却できない葛藤が続きました。

そんな状況を打破しようと例の高校時代の友人A(彼は私とは別の大学の中国語学部所属でした)に、彼が懇意にしている中国研究の教授に中国語の特別レッスンをしてもらうよう頼んでみました。先生はありがたいことに快諾し、私とのカフェでの中国語レッスンが始まりました。

どんなすごい授業をしてくれるのかとワクワクしていたのですが、内容はいたってシンプル。中国語の教科書(なるべく中国語の例文しか載っていないもの)を一週間につき一課分暗記し、教授の前で暗記した一課分を暗唱するというものでした。文法面の説明は極力省き、発音も直した方がいいという部分についてのみ教えていただきました。

なんで暗記?と当初は思いましたが、要するに中国語の大まかな文構造を頭に叩き込む訓練だったのだと、今では思っています。文を丸ごと暗記すれば、会話の中でその文構造をつっかえることなく口から出すことができますし、自分でO(目的語)のところに別の単語を代入してみたり、V(述語)やS(主語)を別の言葉に代入してみたりすることでいろいろなバリエーションを生み出すことができます。

そのような円滑に口から出せる文構造のバリエーションを増やす訓練をしたおかげで、中国語の会話をスムーズに進めることができるようになりました。

飛躍・困難期、そして・・

そうこうしているうちに私は日本での4年の大学生活を終え、念願の中国の大学での留学を実現することができました。

しかしいざ留学してみると、留学生宿舎は日本人留学生の巣窟となっていました(当時)。日本人留学生たちは本職である勉強もせず、宿舎内で日本人同士かたまって毎日宴会をする始末。しかも麻薬や買春をする者さえいたのです。

自分は事前にいろいろ情報を収集していたこともあり、中国の大学の状況はある程度分かっていました。そこで私は中国の大学の留学生宿舎の現状を見た時点で、現地の日本人留学生との縁を一切きり、中国語のみで生活しようと決心しました。

当時外国人留学生は皆大学内の指定の宿舎で生活しなければならないという規則がありました。ですから普通ならば、現地の中国人学生との交流も限られ、中国語を話せる機会もそれほど多くはありません。ただ幸いなことに私が留学した大学の留学生宿舎には、台湾人や華僑の子息の人たちも生活していました。このため宿舎の生活においては彼らとの交流をメインにし、自分から日常的に中国語を使う環境にしていくよう努力しました。そのようなこともあり、この留学期間中に自分の中国語を飛躍的にステップアップさせることができました。

留学生活を終えた後、自分の中国語を生かしたいと考えて香港で就職活動を行った結果、広東省東莞市で日系企業の工場勤務の仕事に就くことになります。

当時東莞市は「性都」と呼ばれていたこともあり、なんでもありの修羅の場所でした。過酷な環境で、工場内で日本人は私一人でしたから普通の人なら数日で根を上げていたかもしれません。しかし工場内の中国人労働者は私によくしてくれましたし、中国語のみの環境で中国語を使った処世術も体得でき、それなりに充実した「東莞ライフ」を楽しめたのではと思っています。

しかし同時に私の中では「こんなところでくすぶっていていいのか」「中日・日中翻訳者・通訳者になりたい」という気持ちが膨らんでいました。

その気持ちを抑えることはできず、結局数年後その工場勤務の仕事を辞め、日本に帰る決断をしました。

日本に帰ってからも、翻訳や通訳とは関係のないいくつかの職を転々としましたが、翻訳や通訳の夢は捨てきれず、通訳学校に通ったり、通訳案内士免許(中国語)を取得したり、中検を目指したり(結局1級を取ることはありませんでしたが)して自分磨きに努めました。

その甲斐あってか、今の職を得ることができています。

今の仕事を得ることができたのは運と言う側面もあったかもしれません。しかし、私は継続的に自分の語学力をブラッシュアップして、あきらめずに探すことができたから、今の職を見つけることができたとも思っています。

また、翻訳という仕事は割の合わない仕事だと言われています。実際それは否定することはできません。しかし中国の一次資料を一番先に目にすることができるという翻訳の醍醐味があるのも確かです。「手に職」の仕事であるとも言えるでしょう。

皆さんには翻訳や通訳の魅力をもっと知ってほしいなと思っていますし、翻訳や通訳をやることが「夢」ならば、その夢に向かってあきらめずに努力することを切に願っています。。

サポートしていただければ、よりやる気が出ます。よろしくお願いします。