或る日

「もう、会えない」
 切り出したのは私の方から。
「そうか」
 あなたからは一言だけ。
 それで、事切れ。呆気なく、素っ気なく、期待どおりに、私達は他人になった。
 理由は単純で明快。私の中にあの人は居なくて、あの人の中にも、きっと私は居なかった。ほんの、それだけ。だから、これは全部仕方のないことなんだって、気づいていたから。私には覚悟も、心の整理も、なんにもいらなかった。
 そのせいなのかな、彼のことは不思議と、ひとつも思い出せない。色々なことがあって、色々なことをしたはずなのに。まるで、ずっと昔からそうだったみたいに。彼のいない事の方がむしろ、当然のことであるかのように。私は今、部屋の中、ひとり小説を読んでいる。

 本は、いい。私という人間の人生を一回ぜんぶリセットして、全く別の人になったような、そんな気分に浸れるから。だからそれが活劇なら、なおのこと、いい。
 いつか読みふけた冒険譚、久しぶりにページをめくる。私の一番好きな話。主人公は大切なものを探して各地を放浪し、行く先々で事件に見舞われる。でも、いつも彼はそれを華麗に、軽快に解決してゆく。なんとも荒唐無稽で、向こう見ずで、それでいて希望に満ちた旅のお話。聞いているだけでわくわくしてくるような、そんな不思議な魅力を持った物語。
 でも、この小説は、彼が探し続けた大切なものについて、最後まで語ることなく終幕を迎えてしまう。何度も読み返してきた本なのだけれど、その答えだけが、いまだにわからない。彼はいったいなぜ、旅を続けていたのか。彼はいったいなんのために、物語を紡いでいたのか。ああ、いつか、理解できる日が私にやってくるのだろうか。

 なんて、取り留めのない沈思の奥底に、さらりと緋色の影が差した。
「もう、こんな時間…」
 最近は日が落ちるのもかなり早くなってきているけれど、それにしても、時間を忘れてすっかり読書に没頭してしまっていたみたいだ。
 この部屋の窓からは、夕焼けの空がよく見える。数十分だけ世界を染める、深紅に焼けた太陽。昔から、人々はこの景色を美しいものだと言い表してきたようだけれど、私は昔から、どうしてもこの朱色を好きになれなかった。この仄かに赤みがかった世界は、私の心に不思議な感傷と焦燥を与えていつも散々に苦しめる。そうして、痛めつけるだけ痛めつけた後、無責任にどこかへ去っていく。そのあとには決まって、もの悲しい夜がやってくるのだ。
 ああ、なぜ昔の人はこの夕陽を見て、燃えるようなと詠んだのだろうか。私には、夕陽というものはむしろ、もっと冷たくて、人の心を凍えさせる、氷の塊のようなものに思えるのだ。
 そのうちに、だんだん薄暗くなってきて、夜とも夕方ともつかない時間がやってきた。地球の影にすっぽりと覆われて、ついに世界から光が失われる前の、ちょっとした余韻の瞬間。しだいに部屋中に広がってゆく群青色の闇に、黒いインクの文字がかすむ。物語は途中だけれど、今日はもう読書を諦めた方がよさそうだ。お気に入りの、適当な栞を挟んでそっと本棚へと手を伸ばす。

 はたと、なにかが落ちた。アルバム。今どき古臭いような、律儀にも現像された写真たちが押し込められた、花柄のアルバム。それは、重力と慣性力とで無造作に、あたかも私に見せびらかすかの様に、あるページを開いてみせた。
 そこにはただ、思いきり笑っているひとの姿があるだけだった。よく知っている人、よく知っていた人。それは心の底から、屈託のない表情なのだとわかるような、そんな単純な笑顔にみえる。そしてそのひとは、まるでこの先もずっとあの幸せが続くんだって、固く信じているようにもみえた。

 ああ、なんでだろう。私はそのとき、その笑顔からこぼれおちる涙が、光を纏って、美しいと思った。


from:こんなお話いかがですか|https://shindanmaker.com/804548

thema:「もう会えない」という台詞で始まり「笑顔からこぼれ落ちる涙が光を纏って美しいと思った」で終わります。

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