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ほろ苦い春を食べよう

私は、味覚に対してけっこう執念深いほうなんじゃないかと思う。

とんでもなく美味しいものを食べた時は、そのシチュエーションも含めて何年も忘れないで覚えていたりする。

そして、いつかもう一度、あの味が食べたいなぁ……などと、じっとりと思っていたりする。これまでお付き合いしたことのある男性には全く未練はないけど、食べ物にはある。そんな感じなのだ。

でも悲しいことに、たいてい同じ味には2度と出会えないものだ。

多分、その時の身体のコンディションとか、いくつもの偶然が重なり合って、その幻の味みたいなものと出会うからかもしれない。

思い返してみると、春にもそんな忘れられない味があったなと思う。

春の味覚は、いつもほろ苦くて、くせがあって美味しい。

たしか、あれは大学院生だった5月頃のことだったと思う。

研究室で、唯一私以外の女の先輩の実家に遊びに行ったことがあった。研究室に、たった2人だけの女性メンバーということで、私はその先輩のことを頼りにしていた。

ちょうど、そのころは就職の内定が決まる頃で、先輩は東京のシンクタンクに就職が決まったと教えてくれた。そんな先輩はとても大人に見え、彼女がいなくなってしまったあとの研究室での生活を考えると、少し心細くなった。

しばらくして、先輩のお母さんが帰宅した。そして、「さっき手にいれたばかりの”コゴミ”だけど食べる?」と声をかけてくれた。コゴミとは春に採れる山菜だ。湯がく時間にも絶妙なタイミングがあるのよねと言いながら、さっとコゴミのおひたしを出してくれた。くるんと丸まった魔法のステッキのような形に、目が覚めるような緑色だった。

口に入れてみると、その少しコリコリッとした歯ごたえのある食感と、ほんの少しえぐ味がある春めいた味がとんでもなく美味しかった。

それ以来、その味が忘れられず、同じ味を求めて実は何度もコゴミを食べてみている。でも、2度とあんなに美味しくて立派なコゴミには出会えていない。あれは紛れもなく春の味だったなと思う。

私が物心ついて、本格的に初めて「春を食べる」を味わったのは、たしか小学1年生のときだったと思う。

今ではすっかり住宅地になってしまった実家の周りにはまだ田んぼがたくさん残っていた。刈り取られた田んぼには、春になると小さなつくしが競い合うように生えてくる。

その頃、近所に住んでいて小学校までの通学路が一緒だった、みっちゃんという女の子と仲良しになった。そのお母さんが、「つくしを摘みましょう」と誘ってくれた。私はみっちゃんと一緒に田んぼのつくしを無心になって摘んだ。そこにはヨモギも生えていたので、これがヨモギだよと教えてもらいながら一緒に摘んだ。ぶちっと引き抜く度に、独特の香りが鼻をつんと刺激した記憶が残っている。でも、その香りは嫌いじゃなかった。

後日、みっちゃんのお母さんが作ったつくしの佃煮とよもぎ餅を頂いた。それ以来、よもぎ餅は私の好物だ。

このみっちゃんとは、ほろ苦い想い出もたくさんある。今でも思い出すのは小学校に入りたての頃の”キャップ事件”だ。その頃、女子の間では、鉛筆のキャップ交換が流行っていた。匂い玉や小さな可愛らしい消しゴムがあしらわれたキャップだとか、いろいろなキャップがあった。

そんな中、みっちゃんのとても大切にしていたお気に入りのキャップがなくなった。なにかの誤解があったのか、みっちゃんは「せいちゃんが私のキャップをとってしまった!」と泣いた。おうちでも泣いたらしい。

私には、とった記憶はなかったのだけど、うちの母にみっちゃんのお母さんから連絡があり、「私がキャップを本当にとったのか、どうか?」と事情聴取が行われた。身に覚えはなかったのだけど、私がもっていたキャップのうち、どれかがみっちゃんのものではないか?という確認が行われた。でも、そのキャップは見つからなかった。結局、うちの母が新たにキャップを買い、みっちゃんにプレゼントするという形で収まったのだけど、幼心になんとなく釈然としない苦い思いが残った。

ちいさなキャップが、そんなトラブルになるほど大切だったなんて、今になったらおかしな話だ。でも、その頃はキャップ一つに大真面目だったのだ。笑

みっちゃんとは、ほんの少しの間ギクシャクしていたと思う。でも小学生のことだから、お互いそんなことはケロッと水に流して、すぐ仲直りした。ちなみに今でも、そのみっちゃんとはすごく仲良しなのだ。

春は新しいクラス、新しい毎日、たくさんの人との出会いがある。

新しい環境で、自分を溶け込ませようとみんな必死だ。私も必要以上に自分をよく見せようとしたり、意地をはってみたりしていた。当然、ほろ苦い想いもたくさんする。振り返ってみても、春は、どちらかというと苦くてモヤッとするような想い出のほうが多い気がする。

そんな日常に、春の味覚は似ているなと思う。

春の味は一筋縄ではいかない。なんとも言えないほろ苦さとえぐみがあるなと思う。だけど、その味をなぜだか、目一杯味わいたくなるから不思議だ。

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つい、先日たけのこ掘りのお誘いをいただいた。

4月下旬に計画されたそのイベントは、2日間の日程だ。たけのこを掘った後は、青竹に盛ったたけのこご飯を食べ、夜は竹で作った簡易テントの中で寝るという計画のようだ。

なんて楽しそうなイベント。春を味わいつくすようなお誘いだった。


春になると、私は心がそわそわと落ち着かなくなる。あちらこちらに溢れる春を味わい尽くしたいという想いにかられる。

かわいらしく蕾がひらいた梅にそっと鼻を近づけて、そのふんわりと酸味のある甘い香りをかぎたい。桜の満開だって見逃したくない。今年は歩いて5分くらいの所にある桜の名所に、まだつぼみの頃から何度も通って桜が満開になるのを見届けた。

息子たちは可憐にヒラヒラと舞う桜の花びらを、地面に落ちる前にキャッチするという遊びに夢中になった。「ママ、桜の花びらをどっちが先に掴めるか、バトルしようぜ!」と誘いかけてくる。こんな幻想的な満開の桜の中でも、なおバトルだといい出す息子たちには、まったく呆れてしまう。笑


4月になれば息子たちも新学期が始まる。新しいクラス、新しい先生。新しい仲間。

どんな、ほろ苦い気持ちを味わうんだろうと、ほんの少しだけ想像してみる。でも私はもう、そんなほろ苦さをありありと想像できないくらいに、図太く鈍感な感性の持ち主になってしまったようにも思う。

だから、せめて、ほろ苦い春の味覚だけは、思う存分に味わい尽くしたいなと思っている。




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